アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

書くことについて

私は自分の意見を発信することが嫌いではない。学校の課題等で書かされる文章は退屈。これには賛成する。だけど、自分から書く文章は割と好きだ<好きだから書くというのも当然あるが>。頭の中にある捉えどころのなかった「イメージ」をくっきりとした輪郭のある「私の意見」にしてくれるところとか。今日は書くことの魅力や効果について私なりに考えていこうと思う。

まずはじめに、紙はどんな意見でも受け入れてくれるということだ。少なくとも公開しなければ批判されるいわれはない。自身に次ぐ最高の理解者というわけだ。これがどれだけありがたいことか。わたしは感覚的に脳みその中のイメージが言語化されるときに自分の意見になると言ったことがある。この点で紙は至上の道具だ。他人に知られることなく自分の思想を確立し、他人に伝えられる形に翻訳できるのだから。或いは本を買ってそれ議論することもできるだろう。いわゆる「ホンモノのヤベえ奴」の温床にもなるだろうが、一般の人間にとっても紙とペン、これさえあればアイデンティティを人知れずに確立できる。隠れ蓑であり安心できる寝床というわけ。

それと、私は人と話すこと<特に議論>が好きだ。これは他者と関わる中で自分の観点に変化が起きるからだ<本を読むことについて、これは文章を介して自分なりの解釈に落としている。だからこれは自省に過ぎないと最近私は思う。その点、話すときには解釈違いを起こしたら相手が修正してくれる>。いわゆる議論による思考の化学反応とでも言うか<この文章を書いた私と打つ私はおそらく別人だ。この表現にいらつきを覚えた>。私が書くことが好きな要因からこのひとつは除いて良いだろう。書くときの私は内省的で、何かを参照しながら書くわけではないのだから新しい反応は起こせない。<このとき、記憶から参照される書籍等は、一度自分の解釈が入るため、自分のものと考える>。しかし別の観点からすると私の話し好きは書き好きに通ずる。どちらも身近なアウトプット法である言語化の練習になるという観点だ。

自分の中のあやふやなイメージを、意見として言葉に変換して外に出す。私はこの瞬間にそのイメージが自分に定着するように思う。思想は言語化されて始めて自分のものになる感覚というか。そして、同種のアウトプットである話すことと、書くことの違いはスピード感にあると思う。話すほうがが圧倒的に、速い。私に言わせれば話すことは油粘土細工的で、書くことは彫刻的なのだ。

話した内容は多くの場合形に残らない。「一度した発言は取り消せない」、「口は災いの元」、「あなたの口はあなたの敵」といった諺が世界中にあふれている。しかし私はそれに異を唱えようと思う。これらの言葉が成立するのは公の場或いは記録される場面であることが多いと。確かに致命的なミス、人間性を大きく書いた発言が元で事が大きくなってしますこともある。だが大方のケースでは間違いを認め、本当の主張を繰り返すことでーー多くの言葉を重ねることでーー影響を小さくできる。人間はコップ一杯分の理解しかできない。そう考えたときに毒を多量の水で薄めるような感じ。修正。これができる点で、話すことは流動的で柔軟。油粘土細工的というわけである。

それに対して書くこと。これはそれ自体が記録である以上、間違えてはならないという重圧がのしかかる。スピード感が遅いから絶対量が少なくなる。毒を入れた場合に薄めることがむつかしい。であるからして、書くという行為では語彙の選択や表現の技法等注意すべきことを話すときと比べ物にならないほどに注意する。これがあると思う。その点できちりと自分の意見がまとまったとき、その文章は自分を体現する。だから、自分の思考力が赤裸々になる。自分の切り口が良く見える。これは他者に文章を公開するか否か、随筆か小説かによらないと私は思う。物語文においてもその人柄が表れるのには間違いないだろう。一度完成したあとの非柔軟性。そして自身を体現しているというある種の芸術性というところで、書くことは彫刻に例えられる。

何度も繰り返しているが、私が書くことが好きな理由は言語化、特に非柔軟性を持った意見を確立できる点にある。言い換えると世界から自分をカタヌキのように切り取ってくれる。この点が最も大きい。どんな駄文でも己の内から出てきたものであるし、明らかに異なるもの<例えばもりきよは1歳で死んだなど>に対しては自分でないと区別できる。<頭の中のぼんやりしたイメージが言語を介して命題化されるからだろう>。書くことで世間と自分とのモノの見方のずれに気がつき、それを確立できる。結局、世間様との比較になることもあるが、この作業をひとりでできることは強みになる。とおもう。この過程を踏んで自分のことを知るのは楽しく、スリリングだ。

自分とそうでないものの境界線。これは言葉で作られるとおもう。そして話す言葉よりもネット上に打つ言葉。打つ言葉よりも書く言葉のほうが強くこの境界線を規定する。これは残しやすさと全体から見たひとつの文章の重み。これのせいだろう。そして思春期の今だからこそ私にとって言葉の重みは大きい。この時期に何を入れて 何を/で 表現するかは重要だとおもう。私はしばらく書き続けることで世界の中の、自分とそうでないものの区別をつけていこうとおもう。これが思春期から青年期に移る私にできる、自己確立に有効な方法だとおもうから。

追記。私はこの文章において書くことが話すことより上だと言いたい訳ではない。ただ、発想するには話すほうが、主張を固めるには書くほうがいい。これだけ。私は書くのが嫌いじゃないから続けようって感じ。