アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

人間関係のちょっとした気づき。2021年上半期を振り返って

おひさしぶりです。昨日もりきよはエチルアルコールをちょっと多く摂取したのと薬を飲まなかったので、睡眠不足。その影響か若干躁っぽいテンションでお送りします。サカナがもりきよを離れて暴走を始める一歩手前と行ったところでしょうか。その一歩はあるのかどうかもわかりません。時間の感じ方が躁状態のそれです。伸びたり縮んだり。それから頭の中を音にならない言葉が反射しています。貧血のときの目のチカチカを聴覚に変えて響かせている感じです。伝わりますかね?これ。そんな音の中からかろうじて拾ったものをひらがなに起こすとたいてい変な言葉になります。それらをたまにグーグル検索にかけるのですけど、たまに、引っかかるんですよね。今日の得物は「よいてーこしょ」でした。諏訪地方の方言で「よいしょ」って意味だそうです。知りませんでした。私は自分の知らぬ間に5Gに接続されて諏訪の民にされかけているのかもしれません。

さて、今日は良くも悪くも未来の自分を作るのは今日の私なんだなと実感したことについて書こうと思います。

私達が生きているのは今であって、未来や過去ではありませんよね。未来に生きていることを過去との比較で実感することはあるでしょうが、自分が変えられるのは今の行動だけだと私は思っています。そして、今からある程度先の未来<ここでいうある程度は1~2ヶ月くらいを想定しています>は独力で変えられると思いますが、それ以上先になるといろいろな要素が絡みすぎて変えるのが難しいと思っています<もちろん社会を変えることが自分自身の習慣を変えることより難しい>。私は先のことを考えて行動するのがとても苦手なので、こんなふうに言い訳をしながら生きてきました。「自分が生きているのは今だから、今を大事に楽しみながら、意義のあると思えるように生きればいいじゃないか。先のことを気にしてそのとおりになったことがどのくらいある」と。

当然自分を騙すための合理化もちゃんとしてますよ。もともと、もりきよは止まることなくダイナミックに変化する環境下を生きてきたのです。児童養護施設時代も8回の引っ越しも、私にとっては「変化に対して順応する訓練」でしかなかったわけで。生まれてくるのは衒奇的な人間、要は後からでも集団で速く地位を獲得できる変人枠です。今は自分のことを普通だと思っているけれど、それでも当時の癖は残っているかもしれない。怖い怖い。そんなふうに常に激流で泳ぎ続ける魚みたいな生活を小6まで続けてきたわけです。それを当たり前だと思っていた。そして訪れるのは中高生での引っ越しのない凪。私はそこで壊れた。小中学校地元の人間関係のデータを蓄積したまま高校の自分を作るのは流石に無理があった。高2で破綻した。留年した。結果1つずれた学年に移行して新しい人間関係を築くことになった。結果として私は無事<?>卒業できた。詳しくは過去に書いているか、これから書くかになるでしょう。<需要があるならおしえてください>

数年に一度訪れる人間関係の崩壊、再構成。これまではそのサイクルを回して放っておけばよかった。そしてこれからもそうだと思っていた。それが今日少し覆された。これはちょっとした驚きでした。

土曜日、世話人さんとの面談日。今日は仕事が終わってのこれからの関する話をしました。未来のことを考えるのは苦手だけど、これからの生活をどうしていくのか説明する大事な場。いろいろなことを振り返るいいきっかけになりました。

人は気分に波がありますね。私はその波が人より激しい双極性障害と診断されています。いつも何か行動するときはその波にノッていることが多い。気分の上がっているとき私は社交的になる。多くの人がそうであると思うのですが、社交的なときというのは多くの情報に触れることができる。躁状態のときは物事をかなり前向きに、ポジティブに考える。様々なイベントに参加してさらに感化されてエネルギーが尽きるまで暴走を続ける。力尽きた私は体を動かすことすらできなくなって抑うつ状態に移っていく。抑うつ状態の私はなんにもできなくなる<それこそ存在するのも困難>。しばらくしてエネルギーが溜まるとまた波にノり始める。

今まではその瞬間瞬間を楽しく適合して生活していればよかった。実際それで満足していたし、未来に何かを求めることはなかった。今日はじめてその遅れた効能に気がつくまで私は「今」だけを生きていたのです。でも、今日気がついたのは、バラバラな場所、時間で出会った人たちを紐付けられているついったの恩恵。

今、ついったのDMを見れば一緒に食事をしようと誘ってくれるサマーキャンプで同じ部屋だった後輩がいる。高校時代の友人で今でもよく話す友がいる。町おこしのイベントでお世話になった方がいる。

世話人さんとは主に受験の話をしました。これから先社会に出る前にゆとりを持って勉強に励める時間を持っておきたいなと思ったのです。それを考える上で自分は何者かを問いたとき、自分が参加し築いた人間関係がわずかながらに残っているのを見つけることができたのです。躁と鬱の波に数年間揉まれても残ってくれたこの人達にはうまい具合に支えてもらっていると思うのです。あちらに過大な負担にならず、こちらは適度なコミュニケーションを取ることができる。

なんだか、人間関係の選別をするのに病気がうまく働いてくれた。そんな感じがします。未来のことを考えるときに一人で起こせる変化は少ないけれど、集団になるとやってみようという気になる。そんなことを友人と話してみると再確認できます。未来を変えるために今できることは少ないけれど、少し先を見た人間関係の調整という点で自然体でいていいんだと今までより深く理解できます。人間、環境でどうにでもなると私は信じているのですが、その環境に自分から働きかけることができるわけです。ちょっと、人生面白くなりそうじゃないですか?

今年の上半期は自分にとって大切なものを確認するためにあったのかもしれません。自分を支えてくれるような制度や仕組みが意外とあること、薬・睡眠・食事といった安定した生活のための3つの基盤、感情の波に耐えてくれた友人たち。これを軸に下半期は着実に学力を伸ばすことに使えというそういう天啓なのかも。きちんと勉強して嬉しい報告をできるといいのですが。

こんな事を言いながら昨日はファミレスでKindleで新しい本を1冊読破しちゃいました。勉強もしっかりやらないとですね。

2夜通し文章を書いちゃいました。途中思考が濁ったり冴えたりしたのがありのまま残ったものをお届けします。レアですよ。敬体と常態が入り乱れる文になっちゃったことは悪いと思っています。でも修正できるだけの余力がありません。お目汚し失礼しました。最後まで読んでくれてありがとうございました。今日読んだ本によると、エッセイは自分の書きたいことを他者が読みたくなるように書いた文章なのだそうです。少しでもオモシロイと思ってもらえると嬉しいです。コンテンツ力<取材力と経験>は練度上げていきたいですね。よいてーこしょー。

私の描きたい文章ってどういうのなんだろう<迷走>

自分の書きたい文章はどのようなものなのか考えることがよくある。もともとは書かないと気持ち悪いから書くだけで、どう書くかなんて関係ないと思っていた。しかし、せっかくの違和感や感想を文章として形をもたせてやるなら自分の理想を持って書いたほうがいいのではないか。そう考えるようになった。その方が文章を書くのが楽しくなると思うからだ。そんな訓練のおかげで理想の文章を追い求めて文を削ったり編集するのが少しずつ好きになった。

ではどういった文章を書きたいのか。私の文章に対する欲求はパズル性で、キーとなるのは文章の長さと読みやすさ、そして言いたいことを言えてるかだ。文章を作るときにはいかに短くできるか、いかに自分の言いたいことを詰められるかが鍵だと思う。できるだけ文量は少なくしたい。けれど言いたいことはきちんと言いたい。この葛藤から文章が引き締められる。これがパズルのようで楽しい。そして、短くなっても難解すぎては読んでもらうことができないため、そのバランスを取る必要もある。そのせめぎあいがおもしろいのだ。推敲を重ねるにつれて文章が研ぎ澄まされていく。

研ぎ澄まされた文章というのはどういうものなのか。それはきっとよくキレる文章だろう。そして、きっと軽い。量はないけど読む人に強く印象づけられるような文章だ。

そんな研ぎ澄まされた文章を書くのは案外難しい。特に難しいのは印象づけるという点だ。今まで文章を書いてきて、自分の文章の完成度が低く感じるのはこの印象が弱いという点で減点を食らっているからだと思う。

私は中島らも岸本葉子のエッセイを読む。ふたりの文章は雰囲気が違うが、どちらも文章としての完成度がとても高い。私に言わせればらもは過去の出来事のエピソードがデフォルメされたかのようにおもしろいのと、場面のトリミングの仕方がうまい。そして岸本は日常の出来事からフッと俯瞰して独自の見方にもっていったり、読者を誘導するのがうまい。ふたりとも文章が読みやすい他にも日常を「おもしろい」文章にするのに独自の視点を持っているのだと思う。

対して私はどうか。お世辞にも独自の視点を持っているとは言いにくい文章なのではないか。人生において大切なことを3つ上げろと言われたら、必ず「バランス感覚」が入る私は、視点も中立的になりやすい。要は誰でも書ける文章を書いてしまうことが多い。それが上手く働くこともなくはないが、自分で文章を振り返るとマイナスになることが少なくない。

本当に中立的な文章を書きたいならば多角的な視点を持っておくべきなのだが、自分の不勉強でそれができていない。これは非常に惜しいことだ。

新しい視座を得るのは難しい。「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」というアインシュタインの言葉があるが、今私はハタチだ。常に好奇心のアンテナを張っておかないと、何もかも惰性で流れていってしまうのを日々経験している。これは本当に恐ろしい。常に「〇〇的に考えたらどうなるのだろうか」と自問しないと、新たな視座を得ることはできないのかもしれない。訓練すべきだと思う。

また、私は受動的多趣味だ。能動的多趣味の人とは違って、自分からなにかに取り組もうとダイブしていったわけではない。であるから得られた知識も受動的なもので、自分のアウトプットに使うのが難しい。今こそ過去を反芻して自分の肥やしにすべきなのだと思う。その時自分はどう感じていたのか、どう考えるのか。それを自身を責任の拠り所として考えていくことは少し勇気のいる作業だ。本に書いてあったとか、だれだれが言っていたとかと責任を外部に取らせるほうが遥かに楽だ。だけど、面白い文章を書くためにはそういったところにも向き合っていかなくてはならないのかなと思う。

面白い文章は日常に潜む「あれ?」という違和感から生まれることが多いのを私は実感している。自分で考える、自分に責任をおいて物事を判断してみる。そしてに日常に面白さを見出し、文章に上手くまとめる。それができれば幸せだと思う。毎日面白いことを探してブログに書くのが良いだろう。

文章は日常の捉え方も変えさせてくれる。もしかしたら人生も変えてくれるかもしれない。

タスク管理むつかしい

やるべきことがの量と気分の上がり下がりが関係しているような気がする。少なければ躁気味に、多ければ抑うつ気味になる。丁度いいのは期限が決まっているタスクが1個くらい、無期限のものが2,3個位だろう。それ 以上or以下 になると気分の上がり下がりが目に見える形になって、生産性を落としてくる。きちんとタスクを管理するのが大切だ。

かと言って、私にはマネージャーがいるわけではないから当然タスク管理は自分ですることになる。奨学金の書類の記入、障害者年金の書類集め、積ん読の消化。優先順位は違っていてもタスクには変わりないから、少しずつこなしていかなくてはならない。一括でタスクを管理する方法を未だに確立できていないから抜け漏れも当然ある。困ったものだ。Google Keepでも使ってタスク管理してみようか。アイビーリーメソッドとKeepの一括管理で優先順位やタスクの分割を試してみよう。それからついでにAKDリストづくりもやれたら習慣を変えられるからいいかもしれない。こうやって計画だけ増えて実際には何もやらない変わらないなんてことはよくあることだ。今回こそ......と毎回思うのだが、なんでこう上手く行かないのだろうか。仕組みを作れるかどうかだろうな、と私は思う。

仕組み。一度作ったらそれに従うだけその後の判断の回数は多くない。そういうものを作れるのが理想だ。しかし、タスク管理を目的とする以上タスクの難易度で取り組み方は変わってくるだろうし、毎回同じようにできるとは思わない。また、気分の波でできる量が変わってしまうのも厄介だ。新しい取り組みを無負荷で始められるなんてことはありえない。その負荷をいかに小さく、分散できるか。これが私が習慣を作るときのテーマなのだと思う。

負荷のかかるように。かと言ってかかりすぎないようにしないと私の気持ちは病み気味になる。今日病院で言われた「躁病の治療は少し落ちている状態が丁度いい」という言葉は「適度に負荷をかけて生活をしなさい」というメッセージだったとの解釈もできる。私が一番ハッピーになるときと言うか、気分が良くなるときはなにか束縛から逃れられたときだ。受験の終了、何日も掛けて取り組まなくてはいけない課題の提出、ストレス元となる家からの脱走。これらの瞬間はとても気持ちがいいし、新しく何かに取り組むきっかけになる。プレッシャー を跳ね除けてorから逃れて 自由を手にした私は無敵状態だと錯覚している。こんなことを周期的に繰り返すから、躁うつ病と診断されるのだろう。でも、これはすでに私に馴染んだやり方だ。今から変えるのは難しい。だからこそ、度を過ぎて高くなったり低くなったりしないように薬とのお付き合いをする必要があるのだなと思う。

気持ちよく物事をすすめるにはある程度の「自由である」という実感を伴わせる必要があると感じている。締め切りギリギリで物事を終わらせるのではなく、選択的にまだやってもやらなくてもいい位のときに終わらせてしまうというか。余裕の持った計画の立て方を勉強する必要があるように感じる。よく、締切より前に自分の締切を作れというアドバイスを耳にするが、それをどうやったら自分の物にできるかが最近の悩みだ。上手く自分の性質とか癖を見抜いて新しくタスクややりたいことを習慣化することを目標に少しずつ変わっていけたらと思う。

とりあえずGoogle Keepでアイビーリーメソッドとタスクのリスト、AKDリストを作成した。毎晩夜寝る前に見直すようにしたい。

趣味を選ぶ余裕と能動性。QOL

文章を書くというのは呼吸をするようなものだ。好きな文のタイプを知って、自分の言葉にしていく。それが息を吸って吐くのと少し似ている。ちょうど、息を吸ったときと吐いたときで気体のまじり具合がちょっと違うところがまたそれっぽい。インプットされる文体、情報とアウトプットは必ずしも一緒ではない。少しずつ進化する。ミームだね。ミーム。ちゃんとは知らないから次の次あたりミームがテーマの本を読もうと思う。

ちょっと前までは本をほぼ読まなくなってインプットが非常に少なくなっているのを危惧していたのだが、「やっぱり勉強は大事だよね」ということで1日の終りの30分は本を読むことにした。今読んでいるのは創価学会員の知人が貸してくれた『青年と宗教』という本だ。ちょっと勧誘的というか論理の飛躍が多い気がする。でもおもしろいといえばおもしろい。文章を書くうえで手に入れたい文体とかを示してくれるものではないけど、自分の立場をはっきりさせるのには役立つ。そんな本だ。少なくとも今の私は宗教に興味はあっても属するつもりはなく、中立的であろうと思っている。勧誘してくれる彼には悪いが、うまく断る理由を本を読みながら探している。直感的な判断だと自覚はしているが、今は宗教に入ろうとは思わない。

自分で言うのは変かもしれないが今の私は良い状態であると思う。薬の飲み忘れが少ないとか、食事をきちんと摂っているとかそういう基本的なことはもちろん大事だ。けど、そういう生理的な欲求と言うか本能的なことから離れて、人間としての文化的なあり方として良い状態であると思う。視座が高くなったとでも言うのだろうか。行動に移される選択肢が増えた。ちなみにメンタルはそんなに安定していない。3日前の脱薬が今も少し気分に影響を与えているのだとおもう笑。やや高い。

この良い状態だという感覚に気がついたのは一昨日ぐらいのことだろうか。家に電子ピアノが来たのが大きな要因として挙げられると思う。今までは家で選択できるコマンドは「寝る」「ついった」「本を読む」「散歩する」くらいだった。どれもずっとは続けられないし、だんだん気が滅入ってくる。これに「ピアノを練習する」とか「お絵かきをする」とかが加わった。家でできることが増えたのだ。選択肢が増えると自由に振る舞える気になるし、能動的に何をやるかを選べる気になれるのがいい<たとえサブリミナル効果的なもので植え付けられた決断だとしても>。

今までは読む本のジャンルがこの自由を担っていたのだと思う。英語、ロジカルシンキングコーランナボコフ。色々なジャンルのものを選んで読む。これが私のメンタルの安定につながっていたのだと思う。1年くらい前の私はこの時期本を読んではついったに書評を書いていた。本を選ぶ能動性。これがメンタルの軸だった。

これが「読む」というひとつの行為にまとまってしまってから、私は本を読まなくなった。字を追う作業に飽きてしまったのだ。ジャンルが違えば違う体験ができる、小説ひとつにつきひとつの人生を追体験できるなんて言葉は虚しく響くだけで、私は本を読むのを一時的にやめてしまった。毎日の読書の中でジャンルという選択肢が出るのではなく、読書という選択の先のジャンルというように階層になってしまった。結果、読書すら選ばなくなるという状態に陥った。

能動性がメンタルに効くのか、メンタルが良い状態だと能動性が発揮されるのか。はたまたあんまり関係ない事象をいとも関係ありげに私が騒いでいるだけなのかはわからない。でも能動性がはたらく環境下、選択肢があって意欲も程々に満ちている状態というのはそれだけで気持ちのいいものだ、と私<このサカナ>は思う。

知人と話したときに、趣味へのモチベーションの話になったことがある。彼も私も飽き性だった。彼は3つほど趣味を持っていて、数ヶ月ごとにローテションさせるのだそうだ。

私の趣味は書くことと読むことだ。話すことも好きだけど、相手がいなければそれは書くことと同じだ。これにピアノ・描くことが入ってくれれば、私も趣味のローテーションを組むことができる。健やかな毎日は案外、趣味などの仕事など生産的と言われるものから外れた能動的な行動から生じるのかもしれない。

豊かさとはなにかというお題で文章を書いたときに心の余裕だと主張したことがある。余裕、そしてそこから始まる余暇趣味の時間。これを大事に生活していきたい。QOLあげちゃおう。

言葉をつなぐちから

当たり前だけど、私達は言葉を巧く操りながら生活している。人と人の間を埋める媒体としてノンバーバルなものが占める割合は情報量としては大きいけど、言葉ほどフォーマルには扱われることは少ない。今日私は高校で借りていた奨学金の返済猶予延期申請書を受け取って、そこに名前と経済状況を記入した。これも言葉によるコミュニケーションといえる。

私には悩みがある。悩みと言うか持病による症状と言うかの判断は難しいけど、困っていて解決策を練るのが難しいから悩みには違いない。私は自分の感情の波を上手く昇華できない。

人のパフォーマンスには多かれ少なかれ波がある。これは当たり前だ。調子の良いときもあれば悪いときもある。でも、私に言わせると「ある程度人の形を保っている」というか、社会的だ。すり減りまくって反社会的な行動をする人もいることにはいる。でもそれは少数派で、皆気分の憂鬱さとか快調さは個人で消化している印象だ。

対して私。病名に自分を語らせるのは好きではないが、私は双極性障害を持っている。躁うつ病。感情の波がブチ上がったりテラ下がったりする。周期的にこのサイクルが回ってくるのだが、普通に感情の波に飲まれる。体があってその上に感情があるのではなく、感情ありきで私が存在するような感覚。上がっているときは体の疲労、経済的負担なんてそっちのけであっちこっちに飛びまわる。下がっているときは指一つ動かすのがしんどくなる。というか存在すること自体がしんどくなる。この傾向は薬で治療している今でも変わらない。完璧に直すことは難しい病気、一生付き合っていく病気なんだそうだ。

体に出る症状がしんどいことはもちろんだが、私が嫌なのは言葉をつなぐちからがコロコロ変わることだ。躁状態のときは飛躍の大きい単語同士をつなぐ傾向が強くなる。抑うつ状態のときは単語同士の飛躍が限りなく近づく。結果、躁状態では突拍子もない言葉たちに翻弄されて目を回し、抑うつ状態ではトートロジーめいた思考に考えを止められる。何も考えられない。毎日身長の違う生活をするとしたらこんな感覚なのかもしれない。使い勝手の変わる道具というのも面倒なものだ。

そんな変な道具を持ちながらも私は文章を書くのが好きだ。なぜならその時の自分がつなぐ言葉の痕跡をそこに残せるからだ。頭の中にある言葉を発出しないとき、頭の中はとてもぼやっとしている。言葉として出すときに結晶化されると言うか、はっきりする部分があると私はそう考えている。文章を書くときは大抵躁寄りの状態なのだが、頓珍漢な狂気を掬って一応文章の形に収まっている私の文章は自分で見る分には面白いし、自分の価値観の変化に気づくきっかけにもなる。

ところで私には蜘蛛の巣を採集していた時期があった。巣にスプレーのりと白いペンキをふきかけて、黒い画用紙に写し取る。その後、シールを張って保管するのだ。私が文章を書くことに面白さを見出すのは、この趣味がいい影響を与えてくれたのかもしれない。蜘蛛の巣と一口に言っても、きれいな多角形を描くものだけではなく、不定形のものもあった。巣を集めるには目を凝らしてそれらの巣をまず認知しなくてはいけない。そして、最もよくその巣を表すであろう面を決めなくてはならない。これは文章を書くときと同じだ。いつもと違う感情状態であると気づいて、それを言語に落とし込んでいかなくてはならない。厳密には言語に落とし込んだ瞬間にこわれてしまう脆い、繊細なもやもやもあるのだが、それはその時の私には技量不足だったのだと諦めるようにしている。

一応でもごちゃついた自分の言葉を標本にして撮って置けるのが良い。最近では、絵を書くことでも標本を作れないかと思っている。だから私の文章は人に見せるものではない。ただ、飾っておいておく、個人の言葉の羅列。少し、汚くても愛着を持って接することができる。そうはいっても読んでもらえることが嬉しい。ありがとうね。

半分以上つくられた思い出

定期テストが近づいていた。今回出題される範囲はどの科目も広く、大辞海をまんべんなく勉強しないと高得点を取るのは難しいと言われていた。嘘だ。そんなものから問題を出されてたまるか。あまりに広い範囲だったためにこういった冗談が生徒の中で流行っていた。「メソポタミア文明からフランス革命もやって、近代史に入るっておかしいんじゃないか」と生徒のひとりが世界史の範囲の広さにため息をついていると、すぐ後ろにいた教師が「広く浅く教えているはずだ。2周目以降はより詳細まで詰めて教える。一通り教えるのが私の授業の第一段階だ」と話していた。

学習は反復だ。自称進学校に属するなら何度も耳にするであろうエビングハウス忘却曲線はそれをよく表している。生命活動に関係しない記憶、五感の伴わない記憶、理解に落とし込めずに表面だけ掬った記憶。これらはすぐに忘却され、体から遠のいていく。遠のいた記憶をたぐり寄せるのは難しいし、時間がかかる。私は知識にアクセスできる状態のことを知っているというのだと思っている。例えば、テスト中はスマートフォン、インターネットを使えない。アクセスできる知識はカンニングペーパーや頭の中のそれということになる。そうなるとテスト中の知識量を上げるには教師の言うことが案外理にかなっているのかもしれない。

この学校は普通校と少し違うテストも行う。世界史や数学、国語のような普通の科目のテストに加えて分野横断のテストというものがある。ここで私達はコミュニケーションスキルや好奇心の強さ、検索の仕方や問いの編集方法に創造性のテストを受ける。どれも測るのが難しいものだと思うが、教員ふたりによる厳密なチェック体制と採点基準により成績やポートフォリオに反映される。私は問いの編集法と創造性のテストが得意だった。問いを答えやすい形にするのは楽しいし、身近なものの違う側面を利用して新しい使い方を考えるのは普段からやっていることだったからだ。こういったテストは多くの生徒から受け入れられ、このテストで求められるスキルの獲得を目的にこの学校に入る人もいるほどだった。なかにはディベートが好きだから入ってきたという知人もいる。ディベートもテストのひとつである。

そして、この学校には一芸に秀た生徒を集める、通称バラ組というクラスがある。バラと言うと薔薇と百合という漫画のジャンルのバラを想起する人がいるようだが、バラエティに富んだ組という意味でのバラ組らしい。最近はダイバー組とか新しい呼び方を考えようという流れもあるようだが、よく知らないのでここでは触れない。とにかく、いろいろな尖った奴らが入って来る少し変なクラスがあるということだ。かくいう私も実はそのクラスの一員である。なんでも特筆すべき長所はないが、ある程度何でもこなす人間がバラ組にもすこしは必要らしい。学年の主任の先生から直々に頼まれて、このクラスに入ることを了承した。「生徒たちの学びの化学反応」を謳う学校方針に隠れた、触媒としての存在だ。私はいわゆる器用貧乏だ。周りの人を見ると自分の能力の不足を感じてしまう。中には触媒生徒が周りに触発されて、優秀な生徒に変身することもあるらしいが、きっと私はそうはなれないだろう。

とまあ、私のいる環境についての説明はこんなところだろうか。私も少しは勉強をしなくてはいけない。放課後の教室には人がまだたくさん残っていた。高校も2年目になると皆余裕が出てくるというか、要領が良くなる。過去問を先輩から獲得したり、クラスの中から有志を募り2組に分けて合計点で競いあうなんていうのはバラ組ではよくあることだ。テストの合計点を競うサム競技や、各科目の最高得点の和で競うベストスコア競技があった。今回私は白組。小学校よろしく組分けは紅白なのだ。くじ引きで決められたこの組に正直愛着はない。ただ断る理由もなかった。せめて足を引っ張らないようにしなくてはいけないなと思う。

特に勉強のできるTという男がいた。彼は今回白組だ。彼は人前になると上がってしまう癖があって、コミュニケーションのテストでは平均を下回る点数をとっていたが、他の教科なら9割は堅いやつだった。彼はいつも生物学オリンピック日本代表のAや神経科学の専門書を読んでいるMとよく話し、勉強しているようだった。

しかし、今回の団体戦でTはAやMと別れてしまった。別に相手の組と一緒に勉強するのは禁止されているわけではないのだが、少しは気にしているのだろう。Tは教室の端の方で黙々と勉強をしていた。勉強と言っても、今回の範囲の応用問題の中でも特に難しい問題の演習だ。正直、とっかかりにくい。無理に付き合う必要もないのだが、めったに話したことのない人というのはそれだけで話してみたくなる。私の性だ。

「やっほー、T。勉強の調子はどう?国語とか苦手だから教えてほしいんだけど」「ああ、君か。数学はもう問題集を過去に3周していたから特に勉強しなくてもいいかな。国語か.......。この問題集がわかりやすいから貸してあげよう。今回、君は白組だったよね」「よくおぼえているね」「まあ、君は一般科目はそこそこできるってイメージだけど、分野横断のテストはすごく良いスコアを取るって噂を聞いたんだ」「そんなに大したことじゃないけどね。努力してできるようになったわけではないし」「努力だって?そんなもの僕だってしたことないさ。好きなことやってたらできるようになっていたって感じだよ。結果として良いスコアを残す事はあってもそれは結果だ。努力した証とは限らない」

確かに彼の言うとおりだ。私のコミュニケーションスキルは楽しくていろいろな人と話しているうちに培われた。案外私達は似た価値観を持っているのかもしれない。

「僕は君も知っていると思うがコミュニケーションを取るのが苦手でね。君にコツを教えてほしいんだ。よかったら週末うちに来ないかい?君は僕に勉強を見てもらえるし、僕は君にコミュニケーションの方法を教えてもらえる。いい関係だと思うのだけど」「悪くないね」「そうだろう?化学なんかは実際に実験を自宅のラボで行うこともできる。魅力的な提案じゃないか」

案外Tは押しが強かった。話はとんとん拍子に進んでいった。本当にコミュニケーションが下手なのか?もしかしたら話しすぎるコミュ障なのかもしれない。あるいは何か訳があってコミュニケーション能力を低く見せているか。不思議なやつだ。なんて考えているうちに話が進んで断りづらくなってしまい、週末Tの家に行くことになった。

Tの家は豪奢だった。高価そうな綩綖がテーブルの下に敷いてあった。飲み物をこぼしたらどうするのだろうかなど貧乏故に出てくる疑問を飲み込んで奥に進み彼の部屋に向かった。私はワンルーム6畳程度の寮に住んでいるのだが、彼の部屋は1.5倍はあるように思えた。部屋には本棚があり、几帳面にも十進分類法で整理されていた。機能面でもきっとそれが良いのだろう。彼の使う机は大きく、積ん読タワーが6本ほど建っていた。色々なジャンルの本が建てられていたのが彼らしい。

彼の勧めてくれた国語の参考書を読む。わかりやすいし、自分のレベルに合っているのを感じる。わからなかったことがわかる。面白い。2ポモドーロほど勉強したときにTと会話をした。

「今のテスト対抗戦っていつ始まったのか知ってる?」「ああ、3年前にはあったらしいよ。僕のお兄さんが言っていた。お兄さんの2つ上の先輩が始めたらしい」「今回白組は勝てるかな」「そういうことを考える前に手を動かさなきゃ。正直AとMの他にも優秀な一点突破型の生徒が紅組で、多士済々の顔ぶれだからベストスコアでは負けると思う。でも、サムなら勝機は全然あると思う。頑張ろう」

午後になって、今度は私がTに勉強<?>を教える番になった。よく出る、シルエットと材質からそのモノの用途を考える想像力のテスト、言葉の意味を検索して正しいものを選ぶ検索のテスト。この練習をまず最初にやった。例題は学校のホームページから手に入れることができる。私は過去に何度か解いたことがあったが、Tは初めてのようだった。

「これは.......棒か?紐がついているみたいだな。それで材質は......昆布または高分子?」<ラミナリア桿か.......ちょっと難しいかもな>。「これは食用ではなさそうだね。となると道具か.......」。「昆布......アルギン酸ナトリウム。高分子.......超吸水性ポリマー。水につけて使うものなんじゃないか?そうだな、大きな岩に穴を開けて楔のように使うみたいな感じで」

だいたい正解だったから回答を伝える。「ああ、医療用なのか。知らなかったよ。これ、事前知識無しで正解できる人はいるのかな」学校としては正解するかしないかは問題ではなく、問題にどのようなアプローチで臨むかを見ている体らしい。実際、この試験は面接のような形式でオンラインで実施される。教師の負担は大きいが、テストとしては面白い。MECEにのっとてあらゆる可能性を精査しているか、論理的に記述、論述できているか。それらが試されるのがこのテストだった。

「じゃあ次。ダブルフィストって言葉の意味を推測してみて。検索オーケーだよ」「そうか、ダブルフィスト......と。うん?アダルトサイトが大量に出てきたのだが。フィストってあのフィストだったのか。ダブルってどういうことなんだ。ひとつの穴に2つ?いや2つの穴にひとつずつ?ちょっと見てみようか。........うわ、すごいなこれは」

問題が悪かった。なんで学校のページにこのような言葉が載っているのだろう。しかも模試という体で。バラ組にはITに強いやつもゴロゴロいるからその中の性癖の歪んだやつが書き加えたのかもしれない。誰も知る由もないが、不適切な問だとして学校には報告しておいた。

結局、模試があるならばそれを解くのが最高の勉強法だ。範囲が広くても先生の特性を理解していれば問題なく対応できるだろう。そのことをTと勉強した1日で悟った。Tはあの後、様々な模試を解く中でコツを掴んだのか、正答率がみるみる上がっていった。このままの勢いで行けば、きっと誰も止められないだろう。

後日ほぼ満点を記録したTは私にタピオカミルクティをおごってくれた。私は別に何もしていないと思うのだけど、彼はどうしてもお礼をしたかったらしい。律儀なやつなんだと思った。クラス内での紅白戦はTの言ったとおりサムで勝って、ベストスコアで負けた。相手のベストスコアはすべて満点だったらしい。Tも3科目満点をとっていたが他の科目に満点がいなかった。結局景品のお菓子はクラスみんなで食べることになった。新しい人と親睦を深める意味でもこの紅白戦は面白いものだった。これからも良き伝統として続いてほしいと思う。私のテストは8割5分ほどでいつもより良かった。ありがとう、T。

テスト終わりのゲームで当方をプレイしたのだが、Q.E.D「495年の波紋」でピチュりまくった。東方難しい。

線を描くように。文章、それから絵。

1本、線を引く。それはどんな種類のものでもいい。破線波線直線曲線。何でも良い。それに次いでもう1本線を引く。交差させてもいいし、平行に引いてもいい。人によってこの2本の線は異なったものになるだろう。どんな線を引くかは自由だ。もしかしたら長い曲線で絵を描く人もいるかも知れない。

私は最近線を引くことにハマっている。ちょっと変な感じがしないでもないが、事実暇があれば線を引くことに夢中になっている。本を読んでいるとき、紙の本で使い倒してもいいと思えるものにはどんどん線を引いていく。線を引いたページは折り曲げて後から戻って読み直せるようにしている。また、文章を紙に書くこと。これも線を引く活動のひとつだ。横書きすることがほとんどで、下から上への接続が悪いときは文字を下から上に書いたりする。オリジナルな線の引き方が少しずつ確立されてきた。さらに絵を描くこと。これも線を引く作業のひとつだ。芯ホルダーでラフな下書きをしてからボールペンで線を引いていく。消すことのできないボールペンでの線びきはスリルがあって面白い。しつこくなり過ぎないように、それでも要点は抑えるように線を絞っていくのがとても面白い。

自分の趣味は何かと言われたときに私は大抵本を読むこととか音楽を聞くことと答えるが、稀に文章を書くことと答えることもある。文章を書くことは自分の状態を客観視するのに役に立つし、自分の書いた文章を再読して不要な部分を削り、必要な部分を加えるといった編集が楽しい。無駄のない、パズルの最後のピースがハマるような文章を書きたいといつも思っている。この文章もおそらく書ききった後に2回は書き直してからブログにアップすることになるだろう。書いた文章の中でも特に気持ちの良いものはnoteにも転載するようにしている。これが良いプレッシャーになって文章を書くモチベーションになっている。実際にはラップトップに向かって文章を打ち込むことが多くなってきているが、良い文章は紙ベースから生まれることが多い。フリーハンドで引く線には何らかの意志がこもるのかもしれない。

文章は言葉をつなげ自分の考えを表現する一種の遊具だと思っている。ひとつの言葉につながる言葉はある程度限定されはするものの、人によって違う。だからこそひとりひとり違う考えを持てる。たとえば「花」という言葉に対してあなたが連想する言葉はなんだろう。「チューリップ」のような花の名前かもしれないし、「花弁」といったパーツかもしれない。もしかしたら「植物」という分類を思いつく人もいるだろう。私は「火」や「炎」が連想される。なぜかと問われると答えるのが難しいのだが、花の咲く儚さや猛々しさがそうさせているのかもしれない。嬉しいことに私は文章を褒められることが多いのだが、もしかしたら一般とはちょっと違う連想のパターンを持っているのが原因なのかもしれない。私は躁状態による飛び飛びの言葉のつながりを結構気に入っているのだろう。

文章を書くことは象形文字から考えれば絵を描くことと近しいものではあるのだが、今は絵を描くスキルと文章を書くスキルは別物だと考えられる。小説家だからといって絵を描くことがうまいとは限らない。逆もそうだ。当然例外はいるが、両方のスキルを持っている人は少数派だろう。私は最近になってまた絵を描くことを始めた。またというのは以前はよく描いていたからだ。小学校から中学校の間、選挙とか薬物乱用防止のポスターをよく描いた。祖父母が美大に行っていたのと、母もイラストレーターだったのもあってすごい重圧をかけられて必死になって描いたのを覚えている。結果として賞をいくつももらったのは良い思い出だ。

ポスターはメッセージありきの絵だ。選挙に行きましょーとか、大麻はやめましょーとか伝えるべきメッセージが予め決まっている。後はそのメッセージにつながるように頭の中で組み合わせてそれを絵として表現すればいい。例えば歌舞伎の見得を切る仕草が薬物に待ったをかける動作に似てるなとかそういうものだ。時間さえかければ誰でも良いものは描けるとおもう。私は夏休みのほとんどを絵を描くのに使って宿題は最後の1日でやるか、すっぽかしていた。やはり家族からのプレッシャーがあったからだろう。

そんな私は今、自由に絵を描きたいなと思っている。Vtuberになりたくてそのためのイラストを書きたいと言うのもあるけれど、なんと言っても文章を組み立てるのと同じ感覚で絵を描けたらそんなに楽しいことってないと思うからだ。目にしたものをすばやく素描する。これはカメラで記録に残すよりも何が印象的だったかがわかりやすい。描きたいものを描く。もしかしたら文章では拾いきれなかった物が絵の中に収められるかもしれない。そんなわけで絵を描くスキルを学ぼうと思うのだ。私の場合ポスターを描くのはいわばコピペ的作業だった。頭の中のアイデアを整理したら資料を探してできるだけ忠実に四つ切画用紙に落とし込んでいく。しかし、今度私が目指すのは自分の内面を全面に出していくドローイングだ。あふれる何か、それを言葉にもできないときのルートとして絵を確保しておきたい。

文章は書く内容<コンテンツ>が充実していないとろくな文章にならない。文章に落とし込むまでに失速して散り散りになってしまうからだ。絵はどうなのだろう。試してみないとわからない。趣味でかく文章と絵はどこまで上手くなれるのか。文章に関しては良い文章に触れていろいろ試していくしかない。絵も描いてみないと始まらないだろう。全ては1本の線から。

もりきよ、お絵かき始めます。これは単に絵を描くという宣言ではなく、内面を充実させ表現するという宣言。毎日何かを学び成長したいものですね。