アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

趣味を選ぶ余裕と能動性。QOL

文章を書くというのは呼吸をするようなものだ。好きな文のタイプを知って、自分の言葉にしていく。それが息を吸って吐くのと少し似ている。ちょうど、息を吸ったときと吐いたときで気体のまじり具合がちょっと違うところがまたそれっぽい。インプットされる文体、情報とアウトプットは必ずしも一緒ではない。少しずつ進化する。ミームだね。ミーム。ちゃんとは知らないから次の次あたりミームがテーマの本を読もうと思う。

ちょっと前までは本をほぼ読まなくなってインプットが非常に少なくなっているのを危惧していたのだが、「やっぱり勉強は大事だよね」ということで1日の終りの30分は本を読むことにした。今読んでいるのは創価学会員の知人が貸してくれた『青年と宗教』という本だ。ちょっと勧誘的というか論理の飛躍が多い気がする。でもおもしろいといえばおもしろい。文章を書くうえで手に入れたい文体とかを示してくれるものではないけど、自分の立場をはっきりさせるのには役立つ。そんな本だ。少なくとも今の私は宗教に興味はあっても属するつもりはなく、中立的であろうと思っている。勧誘してくれる彼には悪いが、うまく断る理由を本を読みながら探している。直感的な判断だと自覚はしているが、今は宗教に入ろうとは思わない。

自分で言うのは変かもしれないが今の私は良い状態であると思う。薬の飲み忘れが少ないとか、食事をきちんと摂っているとかそういう基本的なことはもちろん大事だ。けど、そういう生理的な欲求と言うか本能的なことから離れて、人間としての文化的なあり方として良い状態であると思う。視座が高くなったとでも言うのだろうか。行動に移される選択肢が増えた。ちなみにメンタルはそんなに安定していない。3日前の脱薬が今も少し気分に影響を与えているのだとおもう笑。やや高い。

この良い状態だという感覚に気がついたのは一昨日ぐらいのことだろうか。家に電子ピアノが来たのが大きな要因として挙げられると思う。今までは家で選択できるコマンドは「寝る」「ついった」「本を読む」「散歩する」くらいだった。どれもずっとは続けられないし、だんだん気が滅入ってくる。これに「ピアノを練習する」とか「お絵かきをする」とかが加わった。家でできることが増えたのだ。選択肢が増えると自由に振る舞える気になるし、能動的に何をやるかを選べる気になれるのがいい<たとえサブリミナル効果的なもので植え付けられた決断だとしても>。

今までは読む本のジャンルがこの自由を担っていたのだと思う。英語、ロジカルシンキングコーランナボコフ。色々なジャンルのものを選んで読む。これが私のメンタルの安定につながっていたのだと思う。1年くらい前の私はこの時期本を読んではついったに書評を書いていた。本を選ぶ能動性。これがメンタルの軸だった。

これが「読む」というひとつの行為にまとまってしまってから、私は本を読まなくなった。字を追う作業に飽きてしまったのだ。ジャンルが違えば違う体験ができる、小説ひとつにつきひとつの人生を追体験できるなんて言葉は虚しく響くだけで、私は本を読むのを一時的にやめてしまった。毎日の読書の中でジャンルという選択肢が出るのではなく、読書という選択の先のジャンルというように階層になってしまった。結果、読書すら選ばなくなるという状態に陥った。

能動性がメンタルに効くのか、メンタルが良い状態だと能動性が発揮されるのか。はたまたあんまり関係ない事象をいとも関係ありげに私が騒いでいるだけなのかはわからない。でも能動性がはたらく環境下、選択肢があって意欲も程々に満ちている状態というのはそれだけで気持ちのいいものだ、と私<このサカナ>は思う。

知人と話したときに、趣味へのモチベーションの話になったことがある。彼も私も飽き性だった。彼は3つほど趣味を持っていて、数ヶ月ごとにローテションさせるのだそうだ。

私の趣味は書くことと読むことだ。話すことも好きだけど、相手がいなければそれは書くことと同じだ。これにピアノ・描くことが入ってくれれば、私も趣味のローテーションを組むことができる。健やかな毎日は案外、趣味などの仕事など生産的と言われるものから外れた能動的な行動から生じるのかもしれない。

豊かさとはなにかというお題で文章を書いたときに心の余裕だと主張したことがある。余裕、そしてそこから始まる余暇趣味の時間。これを大事に生活していきたい。QOLあげちゃおう。