アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

言葉をつなぐちから

当たり前だけど、私達は言葉を巧く操りながら生活している。人と人の間を埋める媒体としてノンバーバルなものが占める割合は情報量としては大きいけど、言葉ほどフォーマルには扱われることは少ない。今日私は高校で借りていた奨学金の返済猶予延期申請書を受け取って、そこに名前と経済状況を記入した。これも言葉によるコミュニケーションといえる。

私には悩みがある。悩みと言うか持病による症状と言うかの判断は難しいけど、困っていて解決策を練るのが難しいから悩みには違いない。私は自分の感情の波を上手く昇華できない。

人のパフォーマンスには多かれ少なかれ波がある。これは当たり前だ。調子の良いときもあれば悪いときもある。でも、私に言わせると「ある程度人の形を保っている」というか、社会的だ。すり減りまくって反社会的な行動をする人もいることにはいる。でもそれは少数派で、皆気分の憂鬱さとか快調さは個人で消化している印象だ。

対して私。病名に自分を語らせるのは好きではないが、私は双極性障害を持っている。躁うつ病。感情の波がブチ上がったりテラ下がったりする。周期的にこのサイクルが回ってくるのだが、普通に感情の波に飲まれる。体があってその上に感情があるのではなく、感情ありきで私が存在するような感覚。上がっているときは体の疲労、経済的負担なんてそっちのけであっちこっちに飛びまわる。下がっているときは指一つ動かすのがしんどくなる。というか存在すること自体がしんどくなる。この傾向は薬で治療している今でも変わらない。完璧に直すことは難しい病気、一生付き合っていく病気なんだそうだ。

体に出る症状がしんどいことはもちろんだが、私が嫌なのは言葉をつなぐちからがコロコロ変わることだ。躁状態のときは飛躍の大きい単語同士をつなぐ傾向が強くなる。抑うつ状態のときは単語同士の飛躍が限りなく近づく。結果、躁状態では突拍子もない言葉たちに翻弄されて目を回し、抑うつ状態ではトートロジーめいた思考に考えを止められる。何も考えられない。毎日身長の違う生活をするとしたらこんな感覚なのかもしれない。使い勝手の変わる道具というのも面倒なものだ。

そんな変な道具を持ちながらも私は文章を書くのが好きだ。なぜならその時の自分がつなぐ言葉の痕跡をそこに残せるからだ。頭の中にある言葉を発出しないとき、頭の中はとてもぼやっとしている。言葉として出すときに結晶化されると言うか、はっきりする部分があると私はそう考えている。文章を書くときは大抵躁寄りの状態なのだが、頓珍漢な狂気を掬って一応文章の形に収まっている私の文章は自分で見る分には面白いし、自分の価値観の変化に気づくきっかけにもなる。

ところで私には蜘蛛の巣を採集していた時期があった。巣にスプレーのりと白いペンキをふきかけて、黒い画用紙に写し取る。その後、シールを張って保管するのだ。私が文章を書くことに面白さを見出すのは、この趣味がいい影響を与えてくれたのかもしれない。蜘蛛の巣と一口に言っても、きれいな多角形を描くものだけではなく、不定形のものもあった。巣を集めるには目を凝らしてそれらの巣をまず認知しなくてはいけない。そして、最もよくその巣を表すであろう面を決めなくてはならない。これは文章を書くときと同じだ。いつもと違う感情状態であると気づいて、それを言語に落とし込んでいかなくてはならない。厳密には言語に落とし込んだ瞬間にこわれてしまう脆い、繊細なもやもやもあるのだが、それはその時の私には技量不足だったのだと諦めるようにしている。

一応でもごちゃついた自分の言葉を標本にして撮って置けるのが良い。最近では、絵を書くことでも標本を作れないかと思っている。だから私の文章は人に見せるものではない。ただ、飾っておいておく、個人の言葉の羅列。少し、汚くても愛着を持って接することができる。そうはいっても読んでもらえることが嬉しい。ありがとうね。