アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

私の中のドロドロとしたもの。羨望

今回は私の恥ずかしい部分を露見させる。気がついたら5年くらいは染み付いてしまった悪い癖を、開き直って公開してしまうことにした。

公開したからと言ってその気持ちが消え失せるということはない。だけど、一旦文章にして供養してしまえば、今受けている精神的なダメージや将来他人にかける迷惑だとかをある程度軽減できる気がする。今ここでは露出狂に近い行為になるが、お付き合いしていただけるとありがたい。公開しても気持ちよくなることはない。

私は今までいろいろな人と出会う機会があった。単なる出会いならば多くの引っ越しによるものが大きい。しかし、今も続いている関係はもっぱら私の気質による。双極性障害躁状態のときに足場だけ作った人間関係が今でも残っているといった感じだ。

私は人間関係を継続させるのが得意でない。定期的にやり取りをしているのは3人くらいで、年始にあけおメッセージを贈り合う仲が30人ほど。そしてイベントで出会ってFaceBookで連絡が付く状態ではあるものの、全く絡んでいない人たちが100人超。

連絡を定期的にとっている人たちは気楽に付き合えるし、問題はない。今私を苦しめているのは残る130名近くの知り合いたちだ。といっても私が勝手に苦しんでいるだけでされらには全く罪はない。私が生み出した悪夢と言える。

されらとの出会いは主にソーシャルなイベントだ。ファシリテーションの講座だったり、孫正義育英財団や柳井正奨学金の財団生、奨学生の集まるイベントだったりした。おそらく躁状態だった私はなにか「できる」気がしてそれらのイベントに申し込んで、沢山の「本当にできる人達」と連絡先を交換する。そしてしばらく経って正気に戻った後は関係を放っておいて腐敗させる。

単にそれだけだったら問題ないだろう。相手は私のことなど忘れて、私も時間が経つにつれてされらのことなど頭からなくなってしまうから。

しかし今はSNSの発達した人間関係が希釈された社会だ。以前なら人間関係も有無で判断できたものが、薄く広がり、繋がっているけどろくに知らない人が存在している。0と100との間のような存在。やり取りはしないけれど存在は認知している。そんな存在。

ついったを開けばイベントで出会った人がイベントを主催していたり、高IQの人らが交流していたりする。Google chromeを開けば99件以上溜まったFaceBookの通知が顔を覗かせる。そしてインスタを開けば海外大の学生<卒業生>のきらびやかな日常が垣間見れる。

最近では鈴のnoteが話題になっていた。HLABのサマースクールで同じハウスだった私としては身近なところにすごい人がいるのだと、驚きと称賛そして嫉みが混じった感情になった。

こんなキラキラとした人たちが私に与える影響はあまり良くない。私がされら以上にキラキラしていたいとかそういう意味では無いのだが、同程度ではありたいという醜い羨望の眼差しというのは有る。

私の双極性障害は脳の障害らしいが、通常この患者は躁状態抑うつ状態のギャップで苦しむようである。私もまた同じように、躁状態のときに作った人間関係で苦しんでいるのだと思う。様々なすごい人と関わらせてもらったからなおさらだ。

自己顕示欲とそれを許さぬ環境、周りのすごい人達によって情けなさばかりを感じてしまう。このまま、私がされらのアンチになってしまうのではないかと恐れも抱いている。ひねくれた私に嫌になる。しかし、それでも私は居場所としてのインターネットに依存しているのだ。

この前支援センターウエルカムに行ったときIさんという男性と話した。障害を持っていると25のときに高校の同級生が立派に就職しているのに自分は何もできていないというようなことがよくあるらしい。そんなときでも自殺はしてはいけない。前を向いて頑張らなければならない。そういう話だった。

すごいされらとそうでない私。されらと私の差は大きい。ここで何もせずにいる私がされらを羨ましく思うなど身の程知らずだと思う。私に必要なのはおそらく諦観なのだろう。

諦観。諦め。この語源は、明らかに見る→判断することにあるとどこかできいた。私も自分の実力をしっかりと見極めて、されらのことはコンテンツとして楽しむ。そういった工夫が必要なのだと思う。

私も次の冬で20になる。夢を見続けるのも才能の1つではあるが、私には現実を与えなければならない。されらと住む世界が違うことを認識していくこと。自分の生活の仕方を見出すこと。このことに取り組めれば精神的に安定するだろう。さらば夢。けれども腐るな、自分。

夢を見たくなるとき、躁状態になりたいとき、されらと関わりたいときはきっと来るだろう。その時は背伸びをしないで、自分の目標に立ち返ろう。25までは生きること。将来のことをその5年間で決めること。いきあたりばったりな人生でも良いけれど、自分を確かに持って行動しよう。そうしよう。さらば、嫉みに埋もれた自分。


このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった