アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

太陽と月について。<結局自分自身について>

私はよく2つのものを引き合いに出して比較する。これは癖のようなもので、無意識的に行われる。そこでよく話題に出るもの、しかし勝負が決してしまっているものがある。何か。太陽と月だ。

どちらがすきかと問われれば「月」と即答する。なぜか。これは感覚的・経験的なものだが、太陽がエネルギッシュ、陰陽でいえば陽であるというのは皆から同意を得ることができそうである。対して月、静的で陰といわれるのも同意を得ることができよう。私はそれだけでなく、月には気高い雰囲気があるように思う。夜のしんとした空気がそうさせるのか、月の明かりがそうさせているのかは知らない。だが、太陽は豪族的な荒々しさ、月は貴族的な優雅さ。月は清らかで美しい。そのようなイメェジが私の中に確固としてある。

太陽と月ではどちらのほうが我々人間にたいして実際的な影響が大きいか。これは太陽だろう。ここで月と答えるほど私はおかしくなっているつもりはない<これも「すべてが今のように在るから尊いのだ理論」からすればくだらない問いなのだろうが>。昼夜を分け、地球を適温に保つ。植物を育み、動物の腹をも満たす。太陽の恩恵は計り知れない。月はどうだろうか。潮の満ち干きに関係している。かつては暦に使われていた。しかし、その輝きは太陽から盗み取った<太陽の輝きから得た>ものである。我々が見る月は太陽なしで輝けない。こんな見方をしたら月など太陽との比較対象にすらならないだろう。このとき、月はちっぽけな存在に成り下がる。

それでも、私は月が狂おしいほどに好きだ。月の夜における存在感。太陽と比較したときの脇役感。先述した清純そうな感じ。抑え気味のうす青白い輝き。主役にはならなくとも立派に脇役としてそこに「在る」。これがなんともいえず美しい。儚さがそこにはある。ところで余剰なものに美しさを覚える感覚には名前がついているのだろうか。私が月に美しさを感じる感覚は、「人間、無駄なことをやっているときが最も人間らしい」という感覚に似ているとおもう。余剰を楽しむ感覚。それがあるのだと自分に言い聞かせるために私はここで「月が好き」だと言っているのかもしれない。<ここで不安が大きくなってきたため、くする>。そんなことを考えて自己の存在に批判的になっても、いつも慰めてくれる月のいない雨の夜。20200411(Sat)の夜。このポストを太陽にわたすことは永劫ないと、その感覚をかみ締めながら、文章を締める。やはり、太陽より月が好きだ。波長があう。私は陰キャ()

終わりに

この話題はもっと考えをまとめてから書いたほうが良かった感ある。いずれ改訂版を出すことになりそう。このサカナ<思想>の持ち主もりきよのついった