アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

人間関係のちょっとした気づき。2021年上半期を振り返って

おひさしぶりです。昨日もりきよはエチルアルコールをちょっと多く摂取したのと薬を飲まなかったので、睡眠不足。その影響か若干躁っぽいテンションでお送りします。サカナがもりきよを離れて暴走を始める一歩手前と行ったところでしょうか。その一歩はあるのかどうかもわかりません。時間の感じ方が躁状態のそれです。伸びたり縮んだり。それから頭の中を音にならない言葉が反射しています。貧血のときの目のチカチカを聴覚に変えて響かせている感じです。伝わりますかね?これ。そんな音の中からかろうじて拾ったものをひらがなに起こすとたいてい変な言葉になります。それらをたまにグーグル検索にかけるのですけど、たまに、引っかかるんですよね。今日の得物は「よいてーこしょ」でした。諏訪地方の方言で「よいしょ」って意味だそうです。知りませんでした。私は自分の知らぬ間に5Gに接続されて諏訪の民にされかけているのかもしれません。

さて、今日は良くも悪くも未来の自分を作るのは今日の私なんだなと実感したことについて書こうと思います。

私達が生きているのは今であって、未来や過去ではありませんよね。未来に生きていることを過去との比較で実感することはあるでしょうが、自分が変えられるのは今の行動だけだと私は思っています。そして、今からある程度先の未来<ここでいうある程度は1~2ヶ月くらいを想定しています>は独力で変えられると思いますが、それ以上先になるといろいろな要素が絡みすぎて変えるのが難しいと思っています<もちろん社会を変えることが自分自身の習慣を変えることより難しい>。私は先のことを考えて行動するのがとても苦手なので、こんなふうに言い訳をしながら生きてきました。「自分が生きているのは今だから、今を大事に楽しみながら、意義のあると思えるように生きればいいじゃないか。先のことを気にしてそのとおりになったことがどのくらいある」と。

当然自分を騙すための合理化もちゃんとしてますよ。もともと、もりきよは止まることなくダイナミックに変化する環境下を生きてきたのです。児童養護施設時代も8回の引っ越しも、私にとっては「変化に対して順応する訓練」でしかなかったわけで。生まれてくるのは衒奇的な人間、要は後からでも集団で速く地位を獲得できる変人枠です。今は自分のことを普通だと思っているけれど、それでも当時の癖は残っているかもしれない。怖い怖い。そんなふうに常に激流で泳ぎ続ける魚みたいな生活を小6まで続けてきたわけです。それを当たり前だと思っていた。そして訪れるのは中高生での引っ越しのない凪。私はそこで壊れた。小中学校地元の人間関係のデータを蓄積したまま高校の自分を作るのは流石に無理があった。高2で破綻した。留年した。結果1つずれた学年に移行して新しい人間関係を築くことになった。結果として私は無事<?>卒業できた。詳しくは過去に書いているか、これから書くかになるでしょう。<需要があるならおしえてください>

数年に一度訪れる人間関係の崩壊、再構成。これまではそのサイクルを回して放っておけばよかった。そしてこれからもそうだと思っていた。それが今日少し覆された。これはちょっとした驚きでした。

土曜日、世話人さんとの面談日。今日は仕事が終わってのこれからの関する話をしました。未来のことを考えるのは苦手だけど、これからの生活をどうしていくのか説明する大事な場。いろいろなことを振り返るいいきっかけになりました。

人は気分に波がありますね。私はその波が人より激しい双極性障害と診断されています。いつも何か行動するときはその波にノッていることが多い。気分の上がっているとき私は社交的になる。多くの人がそうであると思うのですが、社交的なときというのは多くの情報に触れることができる。躁状態のときは物事をかなり前向きに、ポジティブに考える。様々なイベントに参加してさらに感化されてエネルギーが尽きるまで暴走を続ける。力尽きた私は体を動かすことすらできなくなって抑うつ状態に移っていく。抑うつ状態の私はなんにもできなくなる<それこそ存在するのも困難>。しばらくしてエネルギーが溜まるとまた波にノり始める。

今まではその瞬間瞬間を楽しく適合して生活していればよかった。実際それで満足していたし、未来に何かを求めることはなかった。今日はじめてその遅れた効能に気がつくまで私は「今」だけを生きていたのです。でも、今日気がついたのは、バラバラな場所、時間で出会った人たちを紐付けられているついったの恩恵。

今、ついったのDMを見れば一緒に食事をしようと誘ってくれるサマーキャンプで同じ部屋だった後輩がいる。高校時代の友人で今でもよく話す友がいる。町おこしのイベントでお世話になった方がいる。

世話人さんとは主に受験の話をしました。これから先社会に出る前にゆとりを持って勉強に励める時間を持っておきたいなと思ったのです。それを考える上で自分は何者かを問いたとき、自分が参加し築いた人間関係がわずかながらに残っているのを見つけることができたのです。躁と鬱の波に数年間揉まれても残ってくれたこの人達にはうまい具合に支えてもらっていると思うのです。あちらに過大な負担にならず、こちらは適度なコミュニケーションを取ることができる。

なんだか、人間関係の選別をするのに病気がうまく働いてくれた。そんな感じがします。未来のことを考えるときに一人で起こせる変化は少ないけれど、集団になるとやってみようという気になる。そんなことを友人と話してみると再確認できます。未来を変えるために今できることは少ないけれど、少し先を見た人間関係の調整という点で自然体でいていいんだと今までより深く理解できます。人間、環境でどうにでもなると私は信じているのですが、その環境に自分から働きかけることができるわけです。ちょっと、人生面白くなりそうじゃないですか?

今年の上半期は自分にとって大切なものを確認するためにあったのかもしれません。自分を支えてくれるような制度や仕組みが意外とあること、薬・睡眠・食事といった安定した生活のための3つの基盤、感情の波に耐えてくれた友人たち。これを軸に下半期は着実に学力を伸ばすことに使えというそういう天啓なのかも。きちんと勉強して嬉しい報告をできるといいのですが。

こんな事を言いながら昨日はファミレスでKindleで新しい本を1冊読破しちゃいました。勉強もしっかりやらないとですね。

2夜通し文章を書いちゃいました。途中思考が濁ったり冴えたりしたのがありのまま残ったものをお届けします。レアですよ。敬体と常態が入り乱れる文になっちゃったことは悪いと思っています。でも修正できるだけの余力がありません。お目汚し失礼しました。最後まで読んでくれてありがとうございました。今日読んだ本によると、エッセイは自分の書きたいことを他者が読みたくなるように書いた文章なのだそうです。少しでもオモシロイと思ってもらえると嬉しいです。コンテンツ力<取材力と経験>は練度上げていきたいですね。よいてーこしょー。