アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

人との交流が恋しくなる時期。寂しさ

様々なところで言われていることだが、人は1人では生きられない。現在でも<むしろ現在だからこそ>食品や水を手に入れるのに他の人の手を借りなければならない。一人暮らしで「自分は1人で生きている」と思っている人も、給料を渡す会社の存在や身の回りのものを販売している店の存在に目を向ける必要があるだろう。自給自足の生活を送っているという人も食品は自給自足でも、衣服等は店に頼っていることが少くない。

そして、そのような生活を支える人間とだけの関係が必要というわけではない。家族、友人、たまにやり取りをする知人。それらの存在は精神的な安定に一役をかっている。これは経験から話すのだが、自分相手に話しているといつの間にか極論を振ってしまっていたり、感覚で話すために大量の造語をしてしまい、次に人と話すときに支障をきたす場合がある。そしてネガティブな考えになったり躁状態になったりしたときに、客観的な視点から止めてくれる存在がいなくなる。自分を「普通」の範疇の中においておくためにも人間関係は大切なのだ。

最近は妙に寂しさを感じて知人に自分から連絡を取ることが多くなってきた。念の為に言及しておくが、躁状態のいろいろな人と連絡を取る症状とは異なると思う。なぜなら知人と言っても5人位で、友人と知人の間のような存在ばかり。そしてそれは私にとって処理できるかどうかギリギリの人数だからだ。キャパオーバーは未然に防げている。

されらは久しぶりの連絡だと言うのに気さくに返信をしてくれる。こちらは緊張してDMやLINEを送るから少し拍子抜けした感じになる。それがとてもありがたい。

どんな事を話すかというと、今年の酷暑の話をしたり、新型コロナウイルスの事を話したりといった感じだ。相手が大学生のときは授業や課題の話をしてもらったりする。ひとつひとつの話題は他愛のないものでも、私にとっては新鮮だ。1人で過ごしている時間が長いと、図書館で選ぶ本も似たような自分の好みのものばかりになるし、生活も単調になる。自分とは違う世界の話を聞くことで好奇心が刺激されて、日常にも彩りがついてくるのだ。

この寂しさは最近になって生まれたものだと思う。今までに友人と会えなくてもこの感覚を感じることはなかった。おそらく、このコロナ禍で人と人との分断が生じたことが要因の1つだ。加えて様々な人と話すことができていた高校の存在が消えたことが今になって効いてきたのだと思う。

高校では友人こそ少なかったものの沢山の人と話す機会が多く用意されていた。クラスメートや元同じクラスの人間、そして部活動等の後輩。身の回りにロールモデルがたくさんある状態だった。自分はいろいろな経験をしていることもあって話すネタには困らなかったし、皆もそれぞれ違ったシチュエーションで悩んだり活動していて面白かった。

それが今年の春から途絶えてしまった。これまでは読書をしたり、病院へ行ったりついったを活用して対応していたが、それに少し飽きてしまったようだ。というよりも、人間関係の重要性はそれ以上だったということか。本から得る情報よりも人との会話から得られる情報のほうが、質を度外視して考えてみれば多いのは自明だろう。

それに加えてGHの入居が決まったというのもある。新しく始まる生活に対する不安が重なり合って、この寂しさに通じているのかもしれない。

コロナによる人の分断、ロールモデルからの隔離、新たな生活への不安。これらが私の寂しさを作っている。そしてその寂しさを埋めるために私は色々な人と連絡をとったり、ついったに住み着いたりしている。

正直これはすぐに解消される問題ではないと思う。時間をかけてゆっくりと解決していったり、寂しさに慣れたり。或いは恋人などができれば環境が変わるかもしれない。

今までは恵まれた環境のもとで自分自身のことで悩んできた。人間関係まで悩みを広げる余裕がなかったのだ。正直、親のことだったり貧困のこと、児童養護施設のことから恵まれていないと考えられることが多い。しかし、こうしてPCにむかって文章を書けたり、高校を出れている時点で私はかなり恵まれているのだと思う。

9月からグループホームに入って、一人暮らしが始まる。生活保護のお世話になれるのも私が幸運にも日本に生まれてきたからだ。

寂しさはこれからも続くだろう。だが、これにも真摯に向き合って、いつか解消できたらいいなと思う。


このサカナ<思想、私>のオーナー、もりきよのついった