アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

1日200円のしあわせ。居場所の値段。

私は最近になって習慣的に公民館に行くようになった。1日の大半を本を読むことで過ごしている私にとって、公民館は今やなくてはならない存在だ。市で一番大きな図書館が徒歩30秒。利用料は無料。朝は8時半から夜は10時まで利用できる。家のストレッサー<母>から離れ、日中の時間を消費できる。利用料は無料だと言ったが、いつも2Lの烏龍茶を薬局で買っていくから120円ほどかかる。それにコロナの影響でつけざるを得ないマスク。1枚50円くらい。それからガムを5日くらいで1パッケージ食べる。およそ1日200円ほどで公民館を使っている。実際それに見合う恩恵は十分すぎるほどに受けていると思う。月当たり6000円か。それでも貯金を崩して払って良いと感じる。

家から離れて日中過ごせる。これがかなり大きい。朝起きたらシャワーを浴びて、軽く運動する。その後出かけると10時くらいになる。昼はわざわざ家に戻るのも煩わしいから、ガムで食欲をごまかす。家にいると嫌でも気分屋な母に付き合わないといけない。あるときは突然叫びだしたり、またあるときはちょっかいを出してきたり。正直注意力をそちらに持っていかれるのがしんどい。土日にもなれば妹との緊迫した雰囲気の中に置かれなければならない。大変にしんどい。それを避けることを許してくれる公民館が好きだ。図書館と違って利用時間に制限もない。行く先のない私にはうってつけの場所だ。私は主に2階の交流室のようなスペースに居る。この場所を知っている人が少ないのか、日中はほぼ誰もいないと言ってもいい。本を読んで、空を見て、また本を読む。たまについったを開いてつぶやく。やることと言ってもそれだけなのだが、19時くらいまでは簡単に過ごせる。本にも集中して取りかかれる。こんなにも良い場所が家の外にあるとは。昔から家は居づらい場所の代表だった。その居づらさを200円で解決してくれるのだ。公民館、バンザイ。グループホームが決まるまでまだしばらくお世話になるだろう。これからもよろしく。私の昼の家。

さて、こんなふうに公民館を褒め称えるだけでは私の書きたい欲はおさまらない。何を書いたものだろう。そうだ、居場所について書くことにしよう。

私には生まれてから今まで、無条件で安心できる居場所というものが無かったように思う。帰る家には恐ろしい母が<或いは素性のわからない母の再婚相手が、事務的なやり取りが印象に残る施設の職員が、頭のおかしい祖父が>いた。学校で知り合いと話すよりも緊張しなきゃならない相手が家の中にいる。家は寝るところではあったけれど、心休まるところでは決してなかった。挙動のひとつひとつ意識しないといけないと思っていたし、今でも大体においてそれは正しかったと思っている。引っ越しが多く、地元にあった性格というのを模索していた私は、学校においても緊張の糸を限界まで張りながら知人と接していた。素の自分は分散させていろいろな人に預けるけれど、1人を相手にすべてを話すなんてことは恐ろしくてできなかった。これはつい最近までもそうだ。高校をこの春に卒業したけれど、そこでもなんでも相談できるなんて人はいなかった。私の認識では「そんなやついてたまるかい」といった感じなのだが。知り合いに聞いてみると皆、親であったり親友<私のあこがれる言葉の1つだ>に悩みは全部話せるらしい。どこの病院でも言われる「誰か相談できる相手はいる?」。いないと答えると、「そうかぁ、森さんにとってそういうひとができるといいね」。何度も繰り返してきたやり取りだ。今ではもう定番。恋人はいた。いま思い返すと、どの場面もぎこちなく恋人役を演じているようで苦い笑みが溢れる。悪いことをしたなと思う。結局彼女に吐いた悩み事など私にとっては些細なことだったのだから。人生における重大な問題かのように告白した家庭環境の悩みは、歯ブラシを変えるスパンをどうするかくらいにどうでもいいことだった。真剣に考えてくれた彼女に申し訳ない。思えばあのときすべてを話していたらなと今更になって後悔する。まあ、全ては終わったのだ。

しかしここ最近になってようやく自分の居場所と言えそうなものが形作られてきた。ついっただ。もともとは自分の経験を断片的に投稿するアカウントだったのが、一転。思考ダダ漏れの露出狂的アカウントになってしまった。悩みのすべてを言うことはまだできないけど、少しずつ吐き出すことができているように思う。沢山の人が見てくれる反面で「誰も私に興味をもち続けやしない」というのが安心に繋がって、自分の内面を暴露している。意図的にセーブする内容はあるけれど、それを除けばほぼ全て。今の主治医である武将によりも沢山「おはなし」しているのは間違いない。武将は「医者としてはツイッタは勧められない。『死にたい』といったら『死ね』と言われる場所だから。『死ね』と言われたらあなた、死ぬでしょう」というけれど、幸いなことに今のTLは穏やかだ。精神的な居場所をついったに肉体的ない場所を公民館に求める私はおかしいだろうか。公民館はいずれGHになり、自宅になるだろうが、ついったは他のものに代替されうるだろうか。私のセーブしている情報はいつか陽の光を見るのだろうか。それを話すに値する知人。それがどんなロールを持って私に立ち上がってくるのかはわからないが、それに出会えるか。話せるか。その日を私は待ち望んでいるのかもしれない。その居場所に私は月いくら払えるのだろう。

悲観的になりすぎなのかもしれない。だが、それを正す人はいない。

このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった