アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

コミュ力 <コミュニケーション力>

今日もお題をいただいた。ありがたいことだ。ついったに「何か名詞をください」と書き込むと誰かしらがやってきてお題をおいていってくれる。正直自分で思いつく題材では普段と同じような書き方や思考に落ち着くことが多いため、新しい視点を第三者からもらえるだけでありがたい。題材をくれた人に感謝。

私はコミュ強?

さて今回のお題は「コミュ力」だ。いろいろな議論ができそうな論題だ。中学高校でも何度「コミュニケーション力をつけなさい」といわれたことか。それだけ身近な存在なコミュ力でも、自分の満足がいくほど高められる人は少ないのではないか。私はよく知り合いや初見の同世代に「コミュ力あるよね」と言われる。不名誉な話ではあるが「もりきよはなかった話をあったかのように話すのがうまい」なんていわれたこともある。ウソなんてほとんど言ったことがないのに。これもコミュ強と認められたからこそ聞けた言葉だろう。確かに私は生徒会長を務めたことがあるから人前で話すことは苦手ではない。ファシリテーションに興味を持った時期があり、講習を受けたこともある。だから議論を転がすことにも苦手意識は少ない。友人とも円満に過ごしていて、不満を感じることは少ない。だから、もりきよはコミュ力がある。とこうなるのだろう。ほんとにそうだろうか? 私と付き合いの長い人間はそうではないことに気がつくと思う。私の認識では コミュ力=コミュニケーションスキル×コミュニケーション体力 だ。そしてコミュニケーションスキルは知識と練習である程度獲得可能だがコミュニケーション体力は伸ばすのが難しいと思う。私の場合は前者が軒並み優秀だが、後者がてんでだめだめなのだ。そして厄介なことに前者が優れているのを認めるのは容易だが、後者を確認するのは難しい。そんなこともあって、私はコミュ強だと認識されがちなのだ。

コミュニケーションの方法

そも、コミュニケーションとはなんなのか。意思疎通、知覚感情思考の伝達のことらしい。それではコミュ力は? これらを行う能力ということで良いだろう。現在考えられるコミュニケーションの手段としては、言語を使うものだと書く、話す、聞く、読むだろうか。一般的にコミュニケーションについて考えるとき、書くと読むは除外される気がする。私もここで話す内容からは除外しようと思う。なぜなら書くことも読むこともある程度は時間をかけて行えるものであり、場合によっては辞書などを補助的に使えるからだ。書き読みで誤りを犯すことは比較的少ない。何度も確認しながら行えるからだ。逆に言ってしまえば、一度の行動で印象が大きく変わってしまう側面が話す・聞くにはある。だから話す、聞くに焦点を当てて話すことは有効だと考える。加えて、これはコミュニケーション体力の話にもつながるが、話す・聞くをするときに同時に「場に合わせる力」というのが必要になる。これについてはあとで述べる。コミュニケーションには話す・聞く・合わせるが必要だということを認識できていれば良い。

話す

コミュニケーションにおいて話すことはそれほど重要ではないと私は思う。といっても、話す必要がないとか話すのを抑える必要があるとかそういう意味ではない。話したいだけ話せばいいと思う。自己主張する上では話すことは大切だ。そのためのツールと認識して使う分には問題ないと思う。自分のしたい話をポツリと話し始める。相手が興味があれば質問や雰囲気によって続きが促されるだろうし、興味がなければ最低限度話した後で語り手が交代する。それだけ。そして何も無理に朗々と話す必要はない。自分の話したい内容なら自然と生き生きと話せるだろうし、聴衆が求める明るい話し方とはそういう類のものだろう。内容的に話さなければならないこと<たとえば仕事の進捗など>はあらかじめ準備することができる。こちらのほうが朗々と話さなければいけない機会が多いのではないか。私は生徒会長をしているときに人前で前期の活動報告等を行ったが、少し練習すれば人前に出れるくらいにはなるものだ。聞きにくくなくて誤解なく伝わるような、資料に乗っかる形で全体的に網羅しながら話せればそれでよい。議論等で自分の立ち位置を寸分たがわずに離す必要がある場合は適当回数繰り返そう。伝達する意味は他人の解釈をはさむゆえに変化<進化>する。それを多方向からの言及で抑えようということである。話すのが好きな人<実は私がそうなのだが>は結論から全体から話すように心がけると、途中で話の長さを調整できるから便利だ。試してみて欲しい。沢山本を読んでおいてネタを沢山持っておくと話にも幅が出てくると思う。いろいろな物事につながりを見出せるのだ。こちらも試してみて欲しい。

聞く

聞くことは話すことの反対! 楽チン楽チンなんて考えてないだろうか。話す側と比べて何を話そうかとか聴衆の反応を見なくて良いとかそういう点で楽に感じるのだろう。しかし聞く側にも気を使うことは沢山ある。まず、聞き手は決して休憩ではないという点について述べようと思う。話し手から聞き手に変わるとき情報の渡し手から受け手に変わる。私は情報の受け手の大切な役割は話し手に多くの有益な話をしてもらうことだと思う。話にまったく興味がないのならば周りに合わせていればそれで良いかもしれないが、互いに良い時間をすごすためには「能動的聴衆」になることがうまい方法だ。能動的聴衆になるにはどうするか。自分で考えながら話を聞くのが基本だ。相手の話を聞きながら自分ならどう考えるか、自分の知っている中で参考になる本はなかったかを考えるのだ。実際私は相手と話をするというよりは相手を使って独りで考えていることがある。そして解決しないことがあったら「先ほどの話、○○とのことでしたが△△とも考えられませんか」のように質問するのだ。やりすぎたらただのウザイ人になるかもしれない? 確かにそうかもしれない。が、案外質問してくれる人がいたほうが話す側もやりやすいものだ。一度試してはいかがだろうか? はじめは「この話の中でn回 質問/議論 するぞ」と決めておいたほうがやりやすいかもしれない。そうすれば質問しまくるウザイ人にはならなくて済むしね。

合わせる

上の話す・聞くの基本がわかったらすぐに実践に移したいものだが、案外うまくいかないかもしれない。バランスが大事だからだ。話す聞くのバランスだけでなく、どのくらい話し質問するのかがうまくつかめないと思いのほかうまくいかない。これは経験に頼るところが大きい。幸い<?>私はHSPの傾向があるようで相手の態度の変化に敏感だ。少しでも相手から話から置いていかれている雰囲気を感じたらスピードを落とし、余裕そうに見えたらスピードを上げるのだ。質問の頻度は2人で話しているわけでないなら周りと同程度か少し多いくらいにすると相手の印象に残りやすい。こう書くと案外簡単なものに思えるが、私にとってはこれが一番大変なステップだ。考えすぎなのかもしれないが、常に相手のペースはどんなものかを探って気疲れしてしまう。ある程度の目安<3段階くらいか?>を作って対応するのが一番楽なのかもしれない。ここについては私も模索中だ。何かコツがあればぜひ教えていただきたい。私は共感性が高いと言われることが多いがそれゆえに会話疲れしているのかもしれない。SNS疲れも考えてみればこの「合わせる」というのが曲者だったのかもしれない。合わせるのは大事だが居心地のよさとの良いバランスを見極める必要があるとここではまとめさせてもらおう。

コミュニケーション体力

コミュニケーション体力は上記のようなスキルを継続するのに使う精神力である。どんなに優れたスキルがあってもそれをある程度長く続けなければ意味がない。はじめの10分だけ能動的聴衆で、残りの50分は消極的聴衆である人を考えてみよう。初頭効果があるとはいっても良い印象を得るのは難しいだろう。私はこのコミュニケーション体力で人より劣っていると思う。というのも少しでも話の本線が興味のない方向にずれたら苦しくなるからだ。いつも少し無理をして場に合わせるが、パーティ会場の中でも内心「何でこんな情報量の多くて雰囲気の変わりやすい場で平然と話すことができているんだ?この陽キャ共め」なんて考えたりする。人と長時間会話した後の頭の疲れ。これは私にとって独特で他のものでは味わうことのできないものな気がしている。近い感覚はあった。徹夜した後に地下図書館で1日中本を読んでいたときだ。過剰な情報量に対する適正が低いのかもしれない。コミュニケーション体力をつけるにはどうしたら良いのか。私が聞きたい。おそらくより多くの経験をして、自分なりにまとめてしまうのが一番近道なのではないか。いろいろと試行錯誤しながらコミュニケーション体力をつけていけたらと思う。スキルというよりは性質なのでは。才能。陽キャ陰キャの違いがここにあるのではないか。あーあ。

その他

ここまでわりと無難にコミュニケーションについて述べてきた。最後に書ききれなかったことをいくつか書いて終わろうと思う。ひとつめ。ネットや本で見たテクニックは少しずつ使おう。一気に使うと頭がパンクしてしまい結果パフォーマンスが落ちることにつながりかねない。有用なテクニックも多いが、相手に使っているのがばれたら面倒なときもある<私は不自然なミラーリングをされると気分が悪くなる>。頭がパンクしない自信があるのなら良いのだが、基本的には少しずづ慣らしていったほうが良いだろう。ふたつめ。自分ともきちんとコミュニケーションすること。コミュニケーションは発信元と受け取り手があって始めて成立する。この場合自分から自分にだろうか?なんだか妙な気がする。当然厳密に言えば違う。ここで私が提案しているのは考える自分から実行する自分へのコミュニケーションだ。自分の考え方を実行に移す前に反芻してたしかなものにしておくのがその意義だ。

まだ書くことはある気がするが今はまとまらない。今後追記か新しい記事にでも書くことにしよう。

このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった