アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

知人の死によせて

一昨日知人が死んだ。親族を名乗る者からついったのDMで連絡を受け取ったのが昼前だ。本人の意向で親しくしていた私には少し早く伝えるようにしていてくれたらしい。3日前にはついーともしていたし、LINEでもグループホーム等含む自立について最近まで話していた。だから少し驚いた。ああ、死んだんだなと。死因はなんとなく察していたし、それは正しかった。彼は自死したのだった。彼の遺書はこれもまたついったで公開されている。絡みがあった方は見ておいてもいいだろう。

彼の死の原因の1つに家庭環境があった。私もあまり良い家庭環境とは言えないが、彼も耐えてきたのだろう。ここに彼のほうが大変だったとか、私は耐えているのに彼は死んだから彼は弱い人間だとかそんなことは言おうと思わない。死に対する恐怖に生きる苦しみが勝った。それだけだ。彼に対しては冥福を祈る。これだけに努めようと思う。

それにしても親族の方もよくこのついーとの公開に踏み切ったものだ。普通だったら隠してしまうだろうに。そこについては私は幸福だったと言えるだろう。彼は亡くなったのだから、彼の幸福について考えるのはナンセンスだと思う。

この訃報は私にとって意味のあるものだ。なぜなら私は今まで知人の死に立ち会ったことがないからだ。ひいおばあちゃんも生きているし、その他の親族も私が生まれる前に死んでしまっているかいまでも元気にしている。死を知らないというのは幸福なのかなとふと思った。彼は血の繋がっていない知人のなかでも、彼と私は2年間という比較的長い時間付き合ってきた仲だった。イベントで出会った事もあって、普通のネッ友より親しくしていた。彼の死が私にもたらしたものは2つ。「ああ、死んじゃってもいいんだな感」と暗く立ち込めるほんのりとした寂しさだ。

1つ目、これは不謹慎だということに私も気がついている。でも私は正直でありたい。だから書く。かくいう私は自殺に失敗した経験があって、そのときはその少し前に自殺に失敗した元クラスメイトのPに通報されたのだった。だから自殺は悪いことみたいな意識はなんとなく感じているし、できないことのようなイメージができかけていた。何度も言うように看護師との約束もあるし。でも、それをやったやつが身近にできた。本人はどんなに苦しんだかわからないが、死んだ。それがなんとなく私の中で、「あ、死んでもいいんだ」という意識に繋がったのだと思う。それに気が付かされた。毎日選択して生きているのだなと確認できた。言葉ではわかっていたけれど実感に少し落とし込めたから良かったと思う。

2つ目。正直彼が死んでとても悲しいということはなかった。残念ではあったけれど、たくさんいる知人の1人と言ってしまえばそれだけで。でも、死んだと聞いて彼との思い出を反芻すると、もう会えないということが明らかになる。なにもないところによりかかるような。漠然とした虚無感。これはきっと寂しさなんだろう。これが今後大きくなるのか次第に日常に戻るのか私は知らない。ただ、病棟で友人が死んだ患者さんに自殺を止められたことがあったけれど、想像より悲しくはならなかったな。これも「死んでもいい感」に繋がっているのだと思う。今後自殺を思いとどまる理由の1つが効力を大きく失ったことになる。親が死んだとき私は「きちんと」悲しめるだろうか。少し不安になった。

彼の死は私に自殺に対するハードルを1段下げるような役割を果たした。今後の課題はそれを含めてどう消化して行くかだろう。彼のことは忘れないようにしたい。ありがとう。あまり悲しんでやれなくてごめんね。......人間的に私が問題ある気がしてきた。

このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった