アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

問いを発すること。その重要性

最近自分を観察したときに、問いを発する回数が昔と比べて大きく減っていることに気がついた。物の名前を知りたいと思うことが減った。そして、「なぜ」という本質を掴むための質問をほぼしなくなった。これは自分にとってもショッキングな発見だった。どうして思考の原点である問うことを私はやめてしまったのだろう?

実は、小学生から中学生になり、大人になるにつれて質問の回数が減ると、調査の結果から明らかになっている<『Q思考 シンプルな問いで本質をつかむ思考法』参照>。だから、質問の回数が減るのは一般的なことではある。

質問の回数が減るのは歳を取るに連れて作られる”常識”や”当たり前”が原因かもしれないし、安易な回答をすぐに用意してくれるGoogleなどの検索エンジンが原因かもしれない。原因はわからないが質問の数は減っているのは確かだ。

そして、少し面白い情報がある。2歳から5歳にかけておよそ4万もの質問を私達は問いかける。その3年間の間に質問の性質は変わっていくというのだ。はじめは物の名前など事実に関すること。それがだんだんと物事の相互の関係だったり、説明を求めるものに変わるとのことだ。

最近の私が作る問いはもっぱら事実に関することになっている。ついったや身の回りのひとを見てもそうなのではないかと感じる。ある意味で5歳の質問能力から2歳の質問能力に逆行していると言うことができるだろう。

全体的な質問の数が減っていくこと。そして事実に関する質問に、説明を求める質問が埋もれていってしまうこと。これを成長と言うことはできるのだろうか。果たしてこれは良いことなのだろうか。

肯定的な意見もあると思う。「社会的な生き方に順応しているから良いのではないか」であったり、「安定した生活を送るためには仕方のない過程だ」などと言ったものがそれに当たる。

だが、私は違うと言いたい。現在で一番必要とされている能力は良質な質問を作る能力だと思う。

私には数多くの優秀な知人がいる。ここで友人と言えないのは私の性であるが、一般的に言う友人関係だと思う。 されらには良質な問いを作り、解決に向けて動く力があったのだと私は考えている。

例えば、村木風海。彼とは都内で開かれたPower of Innovationというイベントで出会った。初めて話したときに彼が地元の振興事業をやっていることを聞いて驚いたのを覚えている。高校生の時から二酸化炭素を回収するスーツケース型のロボット、ひやっしーを開発している。その功績から文部省の異能vationに採択され研究を続けた。その後東京大学に推薦で入学し、今では自分の研究室を持って研究を続けている。ひやっしーを色々なところに売り込んでもいるらしい。うーん、多才だ。エネルギッシュだ。

例えば、山邊鈴。彼女とはHLABのサマースクール、MIYAGI-ONAGAWA2018で出会った。当時はUWCの受験を目指していたから、視点がすごく広い人だなと思うだけだった。皆の前で英語でスピーチをする度胸であったり、いつも真剣に物事に取り組んでいる彼女を見て自分を鼓舞したものだ。最近はインドに留学、そこでファッションショーを開催したり、この割れきった世界の片隅でというnoteがバズったりしていた。彼女が取り組むのは貧困やジェンダー、格差の問題だ。今は海外大の進学を目指す高校3年生。チャレンジに年齢は関係ないと考えていたけれど、それでも年下の鈴が自分より視野が広くて、活動もしっかりしていることには毎度驚かされている。心底尊敬している。

されらは私と何が違ったのだろうか。私は問いを発する能力だと思っている。

直接聞いたわけではないが、風海は「どうしたら地元に来た外国人観光客を喜ばせられるか」、「地球温暖化を止めるにはどうしたらいいか」や「二酸化炭素を回収して再利用する方法は無いだろうか」等の問いを作って自分なりに答えを探してきたのだと思う。

また、鈴に関しては「なぜ私はここに生まれてきたのか」という問いを発したと先日のLIVEで話していた。そこから「なぜ貧困が有るのか」「どうしたらそれを解決できるか」という問いを作ったのではないかと私は推測する。

違った例を挙げてみよう。Netflixがどうして誕生したかをあなたは知っているだろうか。

レンタルDVDショップで延滞料金が発生したときに、「なぜ、このような延滞料金を払わなければいけないのだろう」と問いを発したことがきっかけだそうだ。創業者のリード・ヘイスティングスはそこから月極のレンタルビデオのモデルを設計した。それが今となっては映像の制作もする大企業になっている。

スタートアップ企業が「なぜ」→「〇〇だとしたらどうか」→「どうしたら」という過程を経て作られる傾向があることは、想像に難くないと思う。新たなものを作り出すには既存のものに対する疑問がつきものなのだ。

これらの問はどれも洗練されていると私は思う。問いは広すぎても狭すぎてもいけない。各々にあった規模の大きさがあるのだ。例えば「全世界中の人から支持される統治者になるにはどうしたらいいか」は広すぎるし、「この現象についた名前はなにか」は狭ずぎる。

生産性のある、有意義な問いを作っていきたいものだ。そのためには好奇心、すなわち常識を疑い観察する力が有効に働くだろう。

そこで私は少し前から、「問いきよ」というハッシュタグで身近な問いをついったに放流するようにしている。アウトプットするつもりでスマホを握り、日常を観察するとまた変わった視点からの質問が思いつくものだ。

正直、質の高い洗練された問いを作るのには慣れも必要だと思う。運も絡む。はじめから良い問いを作れる人は稀だろう。だからこそ常に質問し続ける姿勢が大切だと思うのだ。質問だって数打てば当たる。失敗も大事にしよう。

AIにできないことは仮説思考だという話を聞いた。だが、それは最近できつつあると『新記号論』で読んだ覚えがある。事実かはわからないがそうだとしたら、人間らしい営みとして残されるのは問いを発するということではないか。

50年前にもなるがピカソも言っている。「コンピュータは役に立たない。答えしかくれないからだ」と。日常を「当たり前」と片付けるのはやめにしよう。今こそ問いを発して、創造性を発揮するときだ。


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