アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

アナライズ

アナライズ........analyze。日本語に直すと「分析する」という意味だな。私がこのカタカナ語を見た時期と英単語として認識して邦訳を知った時期にはそこそこ大きな隔たりがある。おそらく能動的にカタカナ語を知ったのは、GEN図NETのアナルアナライザだろう。今でも時々笑うために相関図ジェネレータ、側面図ジェネレータなどを利用する。いうて半年に一度くらいだが。ここでカタカナ語のアナライズを知った。英語のanalyzeを知ったのは高1のときか。この隔たりに意味があるわけではないが、思い出したから書いてみた。

私は自己分析をする機会に恵まれていると感じる。分析といえば自己分析といえるくらい自己分析という言葉は広まっていると思う。自分を知っていれば迷わずに行動できるということで重視されるようになったのだろう。迷わず行動できるというのはあながち間違いではない。私も学校等でやらされる自己分析テストから精神科にかかって作った自分史まで。さまざまなところで自己分析と言われるものをやってきた。結果はいろいろだ。リーダーの資質があるといわれたり、サポートができるといわれたり。結局自分がなんなのかはよくわからなくなってしまった。それでも向き不向きがあるのだと知っているからこそ、私は生徒会長などの役職につけたのだと思う。

それにしても、だ。これらは分析といえるのだろうか。質問に答えて、その結果から自分がわかっているつもりになるのは自己欺瞞ではないか。何もないよりかは幾分かましだろうが、質問に答えるのが私である時点で、バイアスが入るではないか。自分の視点で見てきたものに意味づけするのが自己分析なのか。私はそうは思わない。ここで分析の意味に立ち返ってみよう。分析......。ある事柄の内容・性質などを明らかにするため、細かな要素に分けていくこと。とウェブリオの辞書にはあった。自己分析するとき事柄とはもりきよに他ならない。ふむ。自己分析用の質問もその部分だけ取り出すという意味では、細かな要素に分けているといえそうだ。しかし、それは包括的なものなのだろうか。......「あなたはイニシアチブをとる傾向にある」そう思う、どちらかといえばそう思う、わからない、どちらかといえばそう思わない、そう思わない。.......こんな質問で私を内包できるのだろうか? 少なくとも過去の経験についてはわからないだろう。現在の性格ですら判断できるか疑問だ。なぜなら先ほども述べたとおり、その質問に答えるのは私だからだ。私という存在は私にとって特別だ。何かを考えていると自身をもって思えるのは私だけ<たとえばあなたから見た私、何か考えていると言い切れるのはなぜ?>だし、何かを変えようとして実行できるのも私<本当は環境に大きく依存している>だ。こんなに人生に主体的に関わっている人間が、自身について述べるときに偏見が入らないことがあるか。答えは限りなくノーだろう。結局当事者意識は抜けないままこういったテストをすることになる。すると自己に関する誤った認識がテストの結果として帰ってきてしまう。その結果にとらわれて行動することもある。悪循環だ。

この自分で見るとそれゆえに偏見が生ずる問題については解決策がある。他者の介入だ。過去について自分以外に親から話を聞く。知識を元に私の偏見を見破り事実を伝える。そんな精神科医のような人に介入されて始めて自己分析は自分勝手なものでなく客観的なものになりうるのだと思う。いかに俯瞰した見方ができると自信があってもそれはそう思っている人自身の俯瞰的な見方である。現在でも天動説が取れるという話はご存知だろうか。地球を真ん中において、ほかの星がなぜかとても歪な動きをしていると説明するものだ。まるで金魚鉢の中から外界を眺める感覚とでも言おうか。そんな見方を自己分析ではしがちなんだと思う。偏見が入っているゆえに見えなかったりゆがんでしまう自分の性質に対する自覚。これを解消したとき、本当に自己分析ができるようになるのだと思う。正しい自己分析をするには完璧に離見できる必要がある。それが難しいなら、信頼できる友人に意見を求めるのは良い方法だと思う。私はこれから、信頼できる友人を増やせたらなと思う。

終わりに

アナライズから自己分析の話でした。このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった