アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

瓢箪

 

市街地を散歩していたら瓢箪がなっているのを見つけた。ちょうどこの時期に実をつけるらしい。くびれもしっかりできていて、まさしく「瓢箪」といった感じだ。夏を目前にしたこの時期に青々しい瓢箪は少し涼しげな印象だ。私はひと月ほど前にも瓢箪を見ている。郷土博物館で植物画展が開かれているときに、いくつか植物の実が展示されていたのだ。その中に瓢箪があった。カラカラに乾燥して、中身がなくなったそれは水筒にするのにぴったりだったように思う。持ち上げると思いのほか軽かった。

展示を見ているときにふと、瓢箪の中に蟻を入れたらどうなるのかと昔考えたことを思い出した。小学校中学年の時だったか、蟻にとって瓢箪のボトルネックの部分はどのように映るのかなどと想像を巡らせたものだ。蟻が超音波を発することができたら、瓢箪の片方の玉は把握できるだろうなとかそういうことを延々と考えていた。今思うとくだらないことで、そんなことに頭を使うくらいなら友達を作って遊べばと思うのだが、とにかく私はそういう子供だった。

それをきっかけに、自分は瓢箪の中にいるのではないかと言う錯覚に陥るようになった。今もそうだ。文章を書きながら同時に瓢箪の中にいる。どういうことなのか。私は何度も記事で触れているとおり双極性障害である。この病気と関係があるのかどうかはわからないが、自分の視野が広くなったり狭くなったりするのを時折感じる。例えば自分の置かれた状況について、前向きな打開策をたくさん作れて実行しようと思うとき。それと、逆に何もできなくなって手段としての自殺が頭の中から離れなくなるときがある。前者が瓢箪の広い部分にいるとき後者が瓢箪の狭くなる部分にいるときのような気がするのだ。抑うつの症状がひどくなって入院した高2。退院後は気持ちの良い状態<躁転だと主治医は言った>になっていた。自殺に失敗して強制的に入院させられた今年のはじめ。退院後には生きる苦しみを<5年間だけ>なんとか乗り越えていけそうな約束を手にしていた。

この2つの入院は明らかに私の閉じてしまった選択肢を広げてくれた。躁状態と言われるだろうがそれでも私は活動的になれたのだ。そういう意味で私は瓢箪の少し開けたところに移してもらったと言える。この先も私は抑うつ状態になったり、<薬をすっぽかして>躁状態になったりするだろう。何度狭いところを通って広いところに出られるのか。私の入っている瓢箪にいくつボトルネックがあるのかわからないために、何度も抑うつになってはいられない。そんなことを瓢箪を見るたびに考えるようになってしまった。今、私は瓢箪のくびれの近くにいる。

このサカナのオーナー、[もりきよのついった](https://twitter.com/Morikiyo_ryuei)