アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

毎日に意味をもたせたい。それにはどうしたら?

働けない人生に意味はあるのかと知人に聞かれたことをきっかけに、今過ごしている毎日に意味はあるのかと考えた。結局意味なんて評価基準で変わってしまうものだから他人にそれを尋ねるのは間違いだという結論に至った。そして、自分で目標を持って、それに向けて動的な日々を過ごさなくてはただ毎日が反復されてしまうのではないかと考えるようになった。意味は自分で見出すものだし、それを充たすのも自分自身でしかないと私は思う。反復される毎日にしないために........毎日を少しでも意味あるものと思い込むためにはなにができるのかを考えてみようと思う。

これを考えるきっかけとなったのは最近再開した人間関係だ。今年のはじめ入院していたときに知り合ったAという女性。Aとは1週間くらい時間をともにした。彼女は統合失調症だ。色々な妄想や、「自分の思考が他人に聞こえている」という考えに囚われていた。私は彼女の語る物語が面白かったから彼女の話をよく聞いていたし、それに対して意見を述べたりしていた。彼女は<奇妙な考えに固執していながらも>聡明で色々な考えを理解する面白い話し相手だった。でも退院するまで連絡先を交換することはなかったし、この関係は院内で終わるのだなと考えていた。そんな彼女が先月の中盤くらいに急に電話をかけてきた。精神科特有のルールなのかどこの病院でもそうなのかは知らないが、院内での連絡先の交換は禁止されていた。それでも看護師に隠れて連絡先を交換した人が5人ほど居る。その中のひとりから連絡先を教えてもらったらしい。

彼女は一度連絡がつくと味をしめたのかたくさん連絡してくるようになった。グループホームに入ろうと思っているが入居するまでの期間が不安だから入るまでの過程を教えて欲しいという話がはじめの連絡する理由だった。しかし時間が経つにつれて、自分の考えていることが私に伝わっていないかの確認の電話になり、精神が不安定になったときの安定剤的話し相手としての電話に変わった。私としてはいい迷惑だ。勉強している時間だろうと寝る前の準備をしている時間だろうと構わずに電話がいきなりかかってくる。はじめは人助けの気持ちで対応していたが、それにも限度がある。Aには悪いがフェードアウトしていくように連絡頻度を落としてもらおうと思う。

さて、冒頭の「働けない人生に意味はあるのか」という問いはAが訊いてきたことだ。彼女は自分の考えていることを<何に注意を向けたのかというレベルで>読んでいる人がこの世に何人もいて、それが身近なところにもいると信じている。そんな中で働くなんて恥ずかしくてできないと言うのだ。確かにそんな人が沢山いるのならば恐ろしいだろう。でもスマホ等を使っている時点で既にかなりのデータを私達は提供しているわけだ。それにそんなに細かいレベルで心を読んでいるならばその人はその人自身の生活をまともにすることができないのではないか?第一、人生の意味なんて客観的に決められるものではないと私は思っている。

人生の意味について考えることは悪いことではないと思う。私も高校時代に考えた。その時の私は生活保護を受けたり児童養護施設で社会の資源を使っているにも関わらず、将来的に恩送りできる見込みが薄いことを嘆いた。その結果損切りするための自殺の実行<結局失敗したが>をしたりしたものだ。この考え方に転機が訪れたのはAと出会った入院時だ。Aとは別の、強迫性障害を持っていたFちゃんと沢山話しているうちに、彼女の症状が改善されるのを見た。入院して治療しているのだから当たり前のようだが、看護師のひとりが私に「森さんと話すようになってから症状が劇的に良くなった」と言ってくれた。後で調べると患者同士でカウンセリングをするピアカウンセリングというのがあるらしい。それを無意識的にできていたのだ。それを知ったときに私は人生の意味なんて自分で決めるものでも他人から決めれられるものでもなくて、偶発的に役割を果たすものなんだなぁと強く感じた。

だから私は人生に意味がないと自分で思ってしまうことについては問題視していない。無自覚でもどこかしらで役割は果たせていると思うからだ。ただ、日々の生活の中で意味のない1日を過ごしてしまったように感じるのには問題があると思っている。なぜなら、それは自分が変われていないという実感であり、その思い込みから生産性が落ちたりネガティブな行動をとりがちだからだ。そんな中で目指すべきは移動し続けることなのではないかなと思う。方向はどこでもいいからとりあえず動くことが大事。もといた所に結果的に落ち着くこともあるかもしれないが、前日と比較して確かに別のところにいるという実感が必要だと思う。同じことを繰り返して成長できない。それほど恐ろしいことはない。

では動き続けるためには何をする必要があるのか。それは指向性を与えることと力を加えることだ。無闇に動こうとしても結局何にもできていないことは珍しいことではない。厳密に言えば必要ないのかもしれないが、中期の目標を立ててそれに向けて動くのはある程度行動に指針を持つのに役立つ。そして、作った目標を達成するために力を与えること。言い換えれば努力すること。私はこれを「惰性に逆らうこと」だと思っている。日常の中で少しだけでも惰性に逆らって勉強してみたり行動を変えてみたりする。そうすればその日の最後に「これは頑張れた」と思えるはずだ。これの繰り返しで成長し自己肯定感も高まっていく。

もちろん毎日変化を起こすのは難しいし、目標の立て方も慣れないうちは難しい。私も目標の立て方については経験不足もあって上手ではない。けれど、それを自覚して変えていこうと思っていることで既に惰性に逆らっているではないか。そんなラクな姿勢でも構わない。何を頑張っているか自覚することで日常に意味を見出すことはできる。

人生の意味を考えると難しくなるけれど、それはコントロールできないものと割り切って、日常に意味をもたせることに集中する。こんな考え方もあるのだと参考にしてもらえれば嬉しい。私はこの考えに至れてから生活がぐっとラクになった。


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