アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

行動と思考について考えたこと

薬を飲むと体調が悪くなり、抜くとまた気分が悪くなる。何とかならないものか。考えがまとまらないと行動もちぐはぐなものになってしまうように思う。......はて、思考ありきの行動。一般的にはそう考えられているように思う。今の私もそうだ。頭が行動を制御していると、そう考えている。これは正しいのだろうか? おそらく経験的に見る分には正しいのだろうが、瞬間的には、そしてその積み重ねの長期で考えるとそうともいえない気がする。思考と行動は相互に関係しあっている。そんな気がする。そもそも思考がそれ単体で存在することは可能なのだろうか。ここでは深く考えないことにするが、これには2つのアプローチ方法があると思う。ひとつは、すべては思考のうち。脳髄の中で作り出された幻影に過ぎないという考え方。もうひとつは、行動を伴わない思考は存在せず、何者とも解釈されるという考え方だ。さてさて、話をそらした。これについてはまたいつか考えよう。

行動と思考について。思考から行動が発することがあるのは皆納得する話だと思う。研究のできる高校に行きたいと思った。だからTKGを受験した。わかりやすい。それでは逆に行動が思考を支配することはあるのか。私はあると答えたい。なぜなら私は普段からそれに近いことをしていると感じているからだ。

私はよく話す。書くこともあるが話すことのほうが圧倒的に多い。自分への問いかけ、他者との会話を含め日常的に口を動かして話すほうだと思う。はじめのうちは考えてから口から音を発するということをやっていたのだと思う。しかし、いつの間にか逆転し、話したことを後から考えるようになっていた。結論のないまま話し始めてしまうのだ。したがって、うっかり間違いをさも当然のように肯定しかけることもある。これは私の悪癖である。少しずつ直していこうと思うがどう直していいかわからない。薬を飲んでいるうちは寡黙になれる気がする。根本的解決にはならないが。

よく話すということはよく口周りの筋肉を使うということだ。何度も話しているうちに似たような単語が口から発されるようになるのは想像に難くない。私の場合は「或いは」や「私は」などがそうだろう。所謂、口癖である。これらの頻繁に使う単語たちはパターンとして筋肉に記憶されているのだろう。先にこれらの言葉を出してから、あわてて後につながる言葉を継ぎ足すことが少なくない。そして、このことはこれらの言葉に私の一言が制限されてしまうということにも繋がっているとわかるだろうか。「私は」と言ったからには自身について言及しなければならない。「或いは」と言ったら同列の何かを補わなければならない。

先に述べたとおり、私は口から先に考える癖がある<少なくともそう認識している>。無意識的にでる言葉によって話す言葉が限定されているならば、私の思考も限定されているのだろう。そして限定されるならばどこかに終着点<思考の行き着く先>に向かって動かされている可能性も否定できないということだ。行動が思考を制限するという意味がお分かりいただけただろうか。

行動も考えるプロセスの一部というとらえ方もできるかもしれない。頭で考えるのを一度休んで体に考えさせるのだ。まあ、夢のような話だが、ありえなくはないだろう。考えるのに使うからだの部位によって思考の終着点が限定されるのだ。なんら難しいことではない。

今回は筋肉の癖を取っ掛かりにして話を進めたが、そも、人間の脳はニューロンの発火とシナプス間隙の繋がり方である程度理解できるのだ<当然完璧な理解は誰もできていないが>。発火の仕方にくせがあり、記憶に残っているものほど強く結合されていることはよく知られている<私は真偽はきちんとは知らないが>。無意識的に発火されるのなら同じことだ。思考は行動<シナプスの発火のみで行動として良いのかはまた疑問だが>に制限されるということだ。また、わかりにくければ言語をイメージしても良いかもしれない。言語は文法という規則に則り単語で意味を表す。「椅子の青いにテーブルが上黄色のだ落ちる」といわれても意味がわからないだろう。文法に制限されているのだ。言語は。ちなみに、言語の限界こそ思考の限界だと考えたのはウィトゲンシュタインである。彼の著作『論理哲学論考』はまだ読み終えてないがそうだったはずだ。話がまたそれた。

このように考えると、行動は思考を制限する一方で思考に制限される側面もあるように思われる。結局どこへ向かうのかといえば遺伝含む環境になりそうだが......。この2つの側面の狭間に自我としての私がいる。とおもう。考えているのか考えさせられているのかわからないが、精神衛生上の観点からしばらくは前者であると思おう。思考を制限するものは何も周りのものだけではない。自分自身がそうなのかもしれないよ、とそんなお話でした。