アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

時間について。高校生最後の日に私が考えたこと。

今回はネタが思いつかなかったから、時間について心に浮かんだことを書いていこうと思う。2000単語くらいでまとめられたら、うれしい。

はじめに

1日は24時間だ。時計で示される時間は伸び縮みしない。常に1日は24時間でしかない。しかし体感される時間はどうだろう。動くことのできない病床での体感時間は長い。対して、パーティやイベント等やることが次から次へと流れてくる<パーティなら別の人との会話など>1日は早く訪れ、速く去る。ゲームをするとき、体感時間は限りなく短くなるという人もいる。これらは多くの人が経験したことがあるだろう。私も当然ある。私の場合は、「体感時間が長い」というよりは「できることが多い」と感じるのだが。まあ、同じようなものだろう。それで、だ。少し考えを進めて、「体感時間は充実感に反比例する」、「体感時間と充実感の積は常に一定」と考える人もいるのではないか?少なくとも私はそのように考える癖がある<正しい正しくないは関係なく、仮説を立ててみる癖>。今回はこの仮説が正しいとして、充実感とは何かを探っていこうと思う<あくまで私のものであり普遍的なものではない点には注意していただきたい>。

長い時間と短い時間。楽しい時間と退屈な時間。若い時間と老いた時間。

一般的に、「子供が感じる体感時間は長く、歳を取るごとにそれは短くなる」という。また、「体感時間は、楽しいときほど速く過ぎ<短くなり>、退屈なときほど遅くなる<長くなる>」ということも頻繁に聞かれる。このふたつをひとつにまとめることはできないか。まず、障害になるのは「楽しい」という単語だ。私はどうも楽しさに鈍感らしい。「お前は何を楽しいと思うのか」なんていきなり聞かれても、困る。ここでは退屈の対義語だと考えよう。人生と一緒。良い人生にする要素を探すのは難しいが、悪い人生にする要素を探すのは簡単。それらを避ければよい人生を送れる。『Think Clearly』だったか。こんなことが書いてあった気がする。閑話休題。退屈なものから、楽しいもの考えるヒントを得よう。そういう話だ。退屈なものはどんなものか。新しい情報が得られないとき、私は退屈する<退屈ってなんだ?とは考えないようにする。ひとまずは眠くなるってことにしておくか。本当は考えねばならない。致命的なミスにならなければ良いのだが>。また、精神的・肉体的に疲れてしまっているときに退屈する。ここで考えられるのは、新たに得る情報が少ない、或いは印象に弱いものだった場合に退屈する、ということだ。したがって、楽しいのは新たに情報を得る、強く印象に残る情報を得るときだ、ということになる。したがって、「体感時間は強く沢山の情報を得るときに短くなり、弱く少数の情報を得るときに長くなる」となる。しかし、ここに矛盾が生じる。子供が感じる体感時間が長く、歳を取るごとにそれは短くなると明らかに食い違う。子供が感じる刺激は強く、多い。何もないところから多くの情報が在るところにつれてこられるのだ。しかもそこで生き残らなけれ場ならない。これが楽しくなくてなんだろう。また、お年寄りについても長く生きた経験から日常のほとんどのことは惰性で成り立つはずだ。これが退屈でなくてなんだろう。まあ、長年にわたる人間関係は時に刺激的かもしれないが。私はこの矛盾を「記憶」という観点から見てみようと思う。<生きるための情報を得るために若年の記憶が良いのか、若年の記憶が良いから沢山情報を得られるのかは私は知らない。後者の立場に立って書く>。すると、楽しい日常を大量にすくう若人と退屈な日常を微量すくう老人とに分けられる。これをさらに言い換える。「短い体感時間を大量にすくう若人と長い体感時間を微量すくう老人」。言葉遊びみたいだ。でも、この二者を比べたときに時間×楽しさが等しい量になるのではないかと。そうおもう。そのうえで、両者を比べて

  • 鮮明に沢山のことを覚えている
  • 任意の時間を抽出したときに、楽しい記憶が多い

点で若者のほうが体感時間が長いといわれるようになったのではないか。結局両者の過ごしてきた体験時間は楽しさを掛け合わせて同じ量になる。私の仮説と一致した。であるから、はじめにおける私の充実感は「強く、多量の情報<理解可能な範囲で>を得る」時に沸くものだと考える。これを念頭にこれから先の人生を遅れたら、少なくとも自ら選ばずに退屈な人生を送ることはないだろう。

私はどんな人生を歩みたいのか

私は退屈な時間が嫌いだ。ルーティンワークをするくらいなら飢えたほうが良い。とまではいわないが、1日1食にしても良いくらいには嫌いだ。今回考えた内容より、私はやや刺激的な時間<情報量が多く、インパクトが強いかつ理解可能>が好きであることがわかってきた。退屈な時間から楽しい時間に逃げ込むためには今から、意見交換できる人脈作りや、新しいものに目を光らせて分析するのが良いだろう<アウトプットはインプットの量を増やす>。

さてはともあれ、どうにかして25までは生きながらえそうだ。そんな希望が見えてきた。人脈、読書、散策。この三本柱は私の支えになるだろう。そして、お医者さま的にはこのまま惰性で生きていってほしいのだろう。だが、決めるのは私だ。25の私、どうか退屈しない環境を作っておいておくれ。今日の私、25の私のために走っているだろうか。25の誕生日0時にたすきを渡せるように、今日も私は環境整備という名のランニングを続ける。いい話風にまとまった。なんもよかないけど<こんな卒業文集出したらセンセイはどんな顔をするだろう>

終わりに

このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった