アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

成功体験から自己肯定感を探る。

先ほど、友人らとの麻雀グループ<多摩科技元同期の友人はここに集約されてる感がある>で友人Hが「成功体験はあるか。あるならばそれはどんなものか」という旨の質問をしてきた。考えてみれば面白い話であると思う。私は以下のように答えた。

自分ではそうだとは思ってないところで沢山在るんだろうなと思う。それこそ賞とか成績なんて沢山もらってるから。成功って<あくまでイメージだけど>何かそれに向けて努力する必要がある気がする。そう考えると努力ほとんどしない自分にはは似合わない言葉だなと。

なんていやみな言葉だろう。と、いま読み返して思う。「君の取れた賞や成績は誰かが取りたかったものなのかもしれないよ。自重なさい」なんて説教が聞こえてきそうだ。しかし、まあ、いまの私からしたらそうなのだから仕方ない。そのときはこんな私に負ける程度のものだったのだ。しかし、今では大きな差がついているだろう。継続できる人間には私はとても敵わない。まあ、続けていればだが。ほんのわずかな配慮、終わり。

さて、成功体験である。あんまり自分で言うのも恥ずかしいが私はそこそこ優秀らしい。町おこしのイベントに出て町長賞をいただいたり<もちろん他のメンバーの働きがあるが>、中学高校と成績優秀者として表彰されたり、生徒会長を務めたり。ああ、HLABのサマースクールにも参加した。これ自体は自慢できるようなことではないが、周りに優秀な人がいる幸せを噛み締めるためにあえて書く<周りに優秀な人がいることは、当然本人が優秀な人間である証明にはなりえない>。うむ、うまい。まあ、いまは絶賛、精神障がい者としての人生を闊歩しているのだが。落ちぶれたものだ() 

何が言いたいかって? おそらくこれ<最後の障がい者の話は除く>を読んだ人、或いは私の人生の年表<そんなものは当然ないが。精神科のカルテ?>を見た人はおそらくこれらの功績はすばらしいものだと感じるだろう。一種のねたみやそねみが入ることがあるかもわからない。しかし当の本人はこれらを誇りに思うことはない。むしろ誇ることに責任を感じて苦しいくらいだ。なぜか。それはおそらく体感として努力というものがないからだ。

LINEのグループではじめの問いに答えた友人Pは「必死に稽古をして」や「試験の点を競って」という言葉を使っていた。これらの言葉が意味するところは、努力する方向性があり、継続でき、そして後からそれは努力だと認知できているということだろう。私にはそれがない。双極性障害の性質なのか元がそうだったのか今となっては確かめようがない。私はさまざまなことに興味を持つが、それらに執着することは少ない。ほぼないといって良いくらいだ。そのため瞬間瞬間での好奇心に踊らされて、本を読んだりイベントに赴いたりする。ひとつのことに固執しない。これは努力する方向がてんでバラバラとそういうことではないか。

ここで「高校の成績は取れているじゃないか。これは長期なのでは」と気がついた方はすごい。これは私に言わせれば過去の好奇心の軌跡のお陰様である。高卒認定自体は高2でとってしまっていたし、高校のテストも範囲が限られているから短期の再リサーチをしてマインドマップを更新すれば大体済む。これが私が高校で成績を取った方法だ。教養が教育を取り巻くようにして存在していたというか。なんにせよ勉強<特に強いられるもの>はほぼしていない。数学は成績が上がりにくかったことからもそういえるだろう。

話の方向がそれた。いつものことだが。私の努力は方向が定まらないから続くことはない。結果として努力はまったくない或いは瞬間的ながんばりになってしまう。こんなことで努力した実感がわくことがあるだろうか。きっと、ないだろう。そしてそんな私が「成功した」という感覚をつかむのはだいぶ先の話になると思われる。

しかし、感覚はつかめなくても表面上理解はできるのではないか。人の話を聞いたとき、理解できるが共感できないという現象に陥ったことはないだろうか。それをこの案件でできないか、やってみようと思う。いったいどうやって?ここでは他人と自分を事実的な要素で比較することとで自分のできることとできないことを把握し、自己肯定感を安定させることが有効だと思う。

自分だけで自分のできることできないことを考えることは難しい。おそらく不可能だろう。できることを挙げることはできても、できないことをあげるという作業は見落としが多いように思う。ここで他人との比較が必要になる。ただ、この比較は最低限どのものにするべきだ。一個人、それもある道のプロと比較しても仕方ない。あらゆる分野の専門家になる必要はない。専門家になりたいにしても、その世間における「一般」と比較する。これで十分だ。一般人と比べて自分の得意なことは何か、苦手なことは何か。それを知っていれば徐に自己肯定感を高めることができる。

自己肯定感とは何か。定義がしっかりとしていないじゃないかとお叱りの声をいただけそうである。私は自己肯定感は将来の自分に対する期待、ポテンシャルだと理解している、そして、これこそ成功した<する>感覚をつかむためのカギ。スキルがあればそれに関連することができるようになっていく。セクシャルマイノリティに対する理解が深ければ安易に差別的な発言はしなくなる。古文書が読めれば枕草子を原文で理解できる。当然のことである。自分が今の状態で〇〇をしたときに成功するか。〇〇が人生なのか麻雀なのかわからないが、さまざまなものが集まって人生になっているのは疑いようがない。ひとつひとつスキルを磨き、或いは期待を下げるものを取り除けば自己肯定感はおのずとしてあがるのである。わかりにくければ自分を株式会社にたとえて株価で考えるのも良いかもしれない。私はその方面の知識に疎いが感覚的に伝わってくれていると信じる。

自分の成功体験がないことから自己肯定感について考えることができた。この考え方なら成功したときに成功した実感がなくても自己肯定感は高まり、「成功した」ということができよう。これが成功した感覚でなくてなんだろうか。「努力」と思えるものは努力ではない論もここで解決しそうである。成功は何かを考えず後で気がつく瞬間瞬間でそれを積み立てるタイプはその典型だろう。逆にゴールから逆算するタイプは「努力」してそうである。私は努力はしていないけど、する必要もない。やりたいことをやって、後でゴールから見下ろせばいいのである。と自分に都合の良い解釈を得て、筆をおこうと思う。多段落でまとまりの薄い随筆になってしまった。そんなこともある。自己肯定感が対ことと自分勝手な評価を持つことは違う。このことは覚えておきたい。