アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

さあ、「自分」を発掘しよう。最近考えたアイデンティティの効率的な探り方。

概論

私は自我について「反応でしかない。自分は物質的に在るけど精神的にはいない。」と述べた。その考えは今も変わらない。そして、反応の中で生じた自我がアイデンティティを求めて、反応をコントロールする側に回りたいができない。といった矛盾・抗争が生じていることも書いたと思う。今回は

  • 視点の尺度を変える必要性に気がついたこと
  • 自分のアイデンティティを自分で見出そうとするのは無理っぽい。他人との交流で発掘しよう
  • インプットしまくればアウトプットせざるを得なくなる

ことを見つけたから、残しておこうと思う。<言語化する過程で新たな発見があることも期待している>。

視点の尺度について

<ここでくする>

私こと<より性格にはもりきよのこと>を周りがどのように見ているのかがきになって、こんな呟きを投じた。

独特という言葉が多いことは、記事の後半にとっておこう。三十分ほど前についた「形而上のことに対しての探究心が人並みではない人」というのには自分でも考えさせられるところがある。また、とあるついったらに「反射って言葉にすべて収束させても自己満足で、哲学者は納得はできない」という旨の指摘をいただいたこともある。もっともだ。

ウサギは目の前の敵や、食料、子供のことを考えていればそれでよい<あくまで我々の知る範囲内では>。隕石が落ちる可能性とか、地球温暖化なんかを考えるのは、生活に即しているとは言いがたい。人間が宇宙同士の衝突<認知できない>を心配するようなものだ。私は反射論によって、これに似たことをやろうとしていたのではないだろうか。日常からかけ離れた、いわば空想の世界から現実を観測・解釈する。実用性は限りなく低い。そして、こいつが先の矛盾・抗争を生む<これも反射だが自我の立場からすると苦しいものではある>。そう、私は理想論<?>を見すぎているのだと思う。こういう極論も振る分には問題ないが、適応するのには問題が多いだろう。現実とのすり合わせが必要になってくる。そう言うわけで、メタ的な視点から見た解釈<反射論>から、現実に即したより生活観の在る見方を身に着ける必要があるらしいことがわかった。余談だが、科学とは論理的にわからないことをわからないといえるのが必要とされる能力だ。これを説明できるというのは超科学的で、宗教じみたものになる。反射論はぎりぎり科学の範疇内だと思われる。私は宗教は考え方のエッセンスを抜き出すレファレンスとして使いたい。コーランとか、老子儒教の四書とか読んだのはそのため。

自分のアイデンティティは自分だけで探ることはできない。

<まっすぐ歩けない程度には薬が効いてきた>

私/あなた はどのような存在ですか。生きる目的はなんですか。この2つはもっとも答えるのが難しい質問だと思う。肩書きを述べる人、目標を述べる人。さまざまな人がいるが、本質的にこの問いに答えている人は果たしてどの程度いるのか。 人、それ自身を述べるのは不可能だ。他人との比較や何か別のものとの比喩 e.g.スポンジのような人間<頭がスポンジ状なのか吸収力があるのかは不明。>によって自分は記述される。もし、Aというパーソナリティを持つ人がいたとして、他者との交流の中で、B ではない。Cでもない。Dではない、が、近しいものを感じるという形でAを知ることができる。間接的なものの捕らえ方。悪い人生を述べるのは簡単でも、良い人生を述べるのは難しい。これに似ていると思う。たとえるなら、影からそのものが何かを当てるような作業。これがアイデンティティを知る正攻法なのではないかと最近の私は考える。 自分に自分のアイデンティティは何かを問う。当然、これは無意味な営みではないだろう。が、他者と比較しないで、自分で考えたアイデンティティなど、脆弱な、不安定なものではないか。自分の理想をなぞっていることも多くなるだろう。自己言及によるアイデンティティの模索。これは、最終的に反射論か、存在しない魂など超科学への入り口になりうるだろう。<一般的には>健全な考え方ではない。他人に評価してもらって、相違点を確認すること。これがアイデンティティを探る最適な方法なのではないかとおもう。 私は、当然あなたたちの自己言及的アイデンティティの模索をとめる権限などない。でも、1つの考え方として、他人との交流の中で自分を発掘するというのは知っていて欲しいと思う。下手すると私みたいになるから。自己承認欲求も結局アイデンティティの模索中の過程の、他人とのインタラクション中に起こる問題なのではないか。うまく、他人との交流を使えるといいね。自分を知るために。自分をもっとも知っているのは自分。そうかもしれないが、客観性は他人のほうが上だろう。うまくつかいわけましょう。私はうまい方法をみいだそうとおもう。極論を二つ振って、長所と短所を見ることは最適解を見つけるのには良い考えだ。わたしはそうおもう。まあ、比較するのも反射だといえばそれまでだが、ここでは目をつぶる。粒度を現実世界に落とすのが目的だから。ちなみに、交流は対人とは限らない。物でも、本でも良い。

類は友を呼ぶというが、あれも似たものを近くに寄せて、自分のアイデンティティをはっきりとさせる本能なのかもしれないな。物、本でも同様。

アウトプットできない?インプット不足か経験不足かもよ?

よく聞く話。「アウトプットはインプットよりも大事」そうだろうか。インプットなしでアウトプットはできない。アウトプットとは何か。今までのインプットを基にして、新しい<反論も含む>or複合したものをつくり、文字や音声など物質に落とし込む作業であると私は解釈している。これは同時に、落とし込んだものを見ているから、インプットもしているんだよね。だから、アウトプットをすると学びが加速する。こう、私は考える。 何もないところからアウトプットしようとすると難しい。1つのものからは2つのものしか出せない<反論と肯定。実際には別のインプットがなければこれも不可能だが>。2つあれば、反論、肯定とAからみたBとBからみたA、複合など、アウトプットすることが増える。アウトプットするにはインプットがある程度必要。何かものを見て、いろんな情報が関連して出てくるようになったら、アウトプットのし時かもしれない。

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↑このくらいになれるといいね。これはインプットは十分。アウトプットしまくったほうが、本人的にもラクだと思う。

インプットはすんだ。じゃあ、どうアウトプットするかだ。方法はいくつか有るけど最も簡単なのは「〇〇に似ている」って言うこと。ツールはついったでも、メモ帳でも何でもいい。次に、「〇〇は△△だけど◇◇は××だなぜだろう」って考えて、仮説を打ち立てること。他にもたくさんあると思う。「〇〇は☆☆だ<まったく異なる名詞>。なぜなら※※だからだ」とか。e.g.スマートフォンってトイレットペーパーだ。なぜなら、使い終わっても資源<紙とレアメタル>が残るし、生活必需品だから。 みたいなかんじ。割とお勧めです。ついったなら、発信するハードルも低いし、試してみると良いかも。良い脳トレになりますよ。

まとめる。アウトプットするツールはたくさん在る。インプットある程度終えたら、たくさんアウトプットするといんぷっとがふえて、学びが加速する。いいことずくめよってこと。しいて言うなら、他人に自分の思考をさらけ出すから恥ずかしいくらいかな。ぜひぜひアウトプット試してみてほしい。インプット多すぎると当人も大変だから。アウトプットで発散させてあげないとね。あと、アウトプットすると、他人の評価を得られることがあります<特についっただと>これは自分のアイデンティティの発掘にもつながるからお勧めです。

終わりに

たくさん書いちゃいました。記事2個分くらいになるのかしら。読んでくれてありがとう

20200326のもりきよ

このサカナ<思想>のおーなーもりきよのついった