アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

私は物理的にここに在る。しかし私は精神的にはここに居ない

自我なんて偽物だ

もりきよがある程度の距離にある人にする質問に「あなたは精神的にそこに居ますか」というものがある。今まですべての人が「いる」と答えてきた。ただ、もりきよ頭の中のサカナのひとつ<この記事における私としておく>にとってそれは奇妙で、危なっかしい答えだ。私は物質的にここに在る。これは正しいように思う。机を押せば跳ね返るし、高いところから落ちれる<まあ、これも脳が作った幻影と言えばそこまでなのだが>。ただ、精神的にいるって言うのはどうだろう。そもそも精神的って言葉が曖昧さを孕んでいるが、このまま進めようと思う。定義が難しいし、今までしていなかったから。精神的にいるということは自我がある、つまり自分自身でで物事を判断・行動し、それを自分の行動だと認知している状態と同義だと思われる。でもそれって、所詮、脳の電気信号、シナプスの結合の強さから起こる「リアクション」だよね。ふとした拍子に熱いものを触って、反射で手を離すこと。これは拒否できるものでは無い……そうだよね。反射だから。私は、私が今手を震わせながら片膝を曲げた姿勢でこの文章を打っていることも、全て「遺伝や過去、環境に対する反射」だと考える<考えさせられている>。あなたは過去に近くしたことの無い概念を出力できるだろうか。無理だね、恐らくは。<ここでフルニト等薬が入る。文章荒れるかも知らん>。私自身小さい頃は「先生になりたかった」り、「宇宙飛行士になりたかった」りした。今でも覚えている。ちょうどその頃祖母が校長になって、つくばに引っ越してEXPOセンターで宇宙に触れるようになったんだ。自由意志なんてなくって環境で思考の型ができていく。気づいた時はゾッとした。今でも思う。私は反射で考えてるフリしてる。私単体に決定権はなくって、水に流されるだけのビニール袋みたいなもの。みんなは「考えすぎだ」っていう。けど、考えることについて考えたことがある人はどのくらいいるのだろう<論理学的には自己言及は矛盾に陥りやすい>。そんな、「超スピード出ます!仕組みはわからないし、どこに行くかもわからないけど便利でしょ?この自動運転車」なんて言われても、怖くて乗れない。みんな無意識にこの自動車に乗ってる。私はそれがとても怖い<一応25歳までは妥協するけど>。こうした時に、私はま だ自我が生まれていない、或いは自分の統率くらいは自分で取りたいっていう矛盾めいた願望を抱く。私に考えすぎだと言った奴らに一応反論を、「あなた達は考えなさすぎではないか」。デカルトも思う我と存在する我を同一視している所と神の存在証明がめちゃくちゃだったから嫌い。もっと考えろ<考えたフリでもいいから。それに時代の問題はあるだろうが>

アイデンティティ

さて、私が私であるには何が必要だったのだろう。思春期に悩んでしまいそうなテーマのひとつではある。ひとつ、環境。ふたつ、遺伝。そのほかの要素はあるのか知らん? 仮に<思考実験的ではあるが>同じ精子卵子、全く同じ刺激、同じ位相から生まれた2個体<いくつでも良いが>は区別しうるか。おそらく出来ない。コンピュータが進化したら仮想的に私は作れると思う。全く同じプロセスではないだろうけど、同じ解を導き出すもりきよver2。これが、こわい。私がいらないのでは無いかと思ってしまう。

1つ、例え話をしよう。近年、生物多様性の重要性が声だかに叫ばれてきた。これは食物連鎖に関係してるからとか、バイオミメティクスとかが理由に挙げられるのだが。仮に、100頭しかいない動物がいて、その食べるもの、環境に与える影響、食べた後の生成物を完璧に再現出来るマシーンが登場したら、その100匹は殺しても良いだろうか。上記の観点から言えば殺しても良いということになる。これを私の話に戻すと、環境の反射である私は将来的にスパコンとかで再現可能であり、アイデンティティを失う。だから死んでも良いということになる。厄介なことにもきりよの台頭によって将来の話でもなくなってしまった。私はここにあるけどいない。この感覚が日に日に強くなる。

神の存在

初めに言っておく。私はどんな宗教団体にも属していない。人格を持った神なんていないと思ってる。典型的な<?>日本人。宗教的なしがらみが少ない国だからこそ、沢山の宗教に触れて、自分自身納得のいく道徳をつくる。それが私。元来、神って言うのは逆らうことの出来ない不条理e.g.飢饉等を、恐れたものだと理解している。この意味で、私は神の存在を認める。それは環境と遺伝だ。結局、生かされているだけの存在。これが私なのだと思う。文字にすると難しいけど、私はこれに反旗を翻したい。たとい、この自我<もどき>が脳の産物であったとしても、それを手中に収めたいというか。集合の中の集合がそれを取り巻く集合を取り巻きたいという矛盾した欲望。これが私を生きづらくしている。コンピュータとか、外部に頼ってもいいけど、集合の内側<反旗を翻したい私>が強くなると母体である脳みそも強くなるというイタチごっこ。第三者イスラームするのも、それは私ではなくて他人だし。難しい。果たして25までに決着が着くのか。一生思春期をやっていそうな心持ちではある。さからえない神。これを脱する方法はもきりよに全てを預けるか、自殺しかないのだろうな。とても生きづらい。

この世はVR?

病棟内で話した人で、面白い人がいた。某純国産ジェット<エンジンが羽の上にあるやつ>のエンジンを作っていた人。彼は私に「この世はVRだと考えれば良いのではないか」と提案してきた。それは「今現実世界だと思っているのは自分自身が作り出した幻想で、自分が楽しむために作っていると考える」考え方らしかった。なるほど、それは、楽ではある考え方だ。しかし、、その楽しみを求める存在と私は別人格だなと思った。私自身何が楽しいかわからないし、そんな素敵なvrが作れるなら、親ガチャもあたりをひいていただろうし。従ってこの考え方は受け入れられない。面白い人だった。また話したいなぁ。

まとめ

  1. もりきよ的には自我は存在しない。全て環境や遺伝による反射
  2. 考えることについて考えると、結局アイデンティティは失われる
  3. 自我は脳みそが作った機能の一部。私から見てると、<私も含めて>「考えてるふり」や「自我があるふり」をしているやつが多すぎる。わたしはそれがこわい。
  4. 自分の脳の領域を超えたヤツは、他人。取り入れたら自分の反射の射程圏内。
  5. いまのもりきよは反射で生きることに妥協している。でもこれは25迄にしようと思う。生きる理由ができたら変わるかもだけど、その見込みは今のところは、無い。

オーナーのついった