アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

おやすみ。私の父について少し

今日は既にくすっている。夜の仮眠のとり方はきちんと考える必要があるな。というか、取らない方向で動いたほうがいい。眠くなったらシャワーを挟むようにしよう。明日の朝は早い。掃除やらないといけないからね。

TLで親が犯罪者の女性の話が流れてきた。私の父親も犯罪者。○。○○事件に深く関わっていたと言うけれど、母からは家庭内では優しい人だったと聞いている。本当だったのか母がそう思い込みたいのかはわからない。でも、私の母とは不倫関係であったらしい。だとすると後者かな。父はまだ収監されいるから懲役は15年を超えているのではないだろうか。そろそろ出てくる頃。この前、母には父から私の住所を見ることができないように警察署でDV支援措置をかけてもらった。きっと今後関わることはないと思うけれどそれでも父の存在って案外大事なんじゃないかなと思う。母は父の分の責任感があったのか私には暴力を振るうことがまあまああった。これを抑止してくれる存在がいたらどんなに嬉しかったらろうと思う。私は父の名前を受け継いでいる。もりきよ。このきよには父親の漢字の龍が使われている。希薄になった中でも感じられる絆というべきだろうか。私の名前の読み方なんて検索してもまず出てこない。これが父と私を繋ぐ唯一の手段になるのかもしれない。

記事で紹介されていた女性は収監されていた父との再会を果たしていたが、私の場合はその可能性は希薄だ。私がもりきよとして活動を続けて有名になれば向こうからコンタクトを取ることは可能かもしれないが、ほぼありえないと言ってもいいだろう。そんな中に私はいる。結構特殊な環境にいるのだなぁと日に日に思い知らされる。まあ、面白いからいいんだけどね。ヤクザな仕事を紹介されない限りは。

次第に習慣化されていく毎日。これってどうなの?

一人暮らしを初めて1ヶ月と1週間くらい経った。10月に入ってからは生活を安定させること、つまり睡眠時間の固定だったりとか家事の習慣化に取り組んでいる。これには嬉しい面もある反面あまり喜ばしくない面もある。今日はこの両方を考えながら、日常をどう変化させるのが良いのか考えてみようと思う。

まずは良い点について考えよう。日常の中にルールを課して生活に規則性をもたせると、日常のあちこちで自動化された動作が生まれる。例えば私は10月の初めから22時10分にアラームをかけて22時30分に薬を飲めるように努めている。こうすることで寝る時間について考える必要がなくなる。作業をしていてもアラームが鳴ったら作業を中断して、机の上に本などをおいて明日に引き継ぎをする。その後は歯磨きをして英単語の復習をしたあとに薬を飲んで寝るだけだ。以前のようにいつ作業を中断して、いつ寝るのかについて考える必要がない。もっと言えば、薬で眠りを管理している関係上次の日の起床時間も安定して予定に遅れるということもなくなってくる。これが10月から生活を変えてみて感じた変化だ。今まで考えてきた問題を無視でき余計なことを考えなくても良くなる。日々の生活を維持するエネルギーを少なくしながらもクオリティの高いパフォーマンスができるのは圧倒的に良いことだろう。

続いては悪い点についてだ。これは良い点と表裏一体である。習慣化されて自動的に行われる動作に対して考えることが減るというのがそれだ。例えば洗濯。私はシャツ類が6枚になった次の朝に洗濯機を回すというルールを採用している。大体2~3日に一度くらいの頻度だと思ってもらえればいい。このとき、私は洗濯をいつしようかとか、洗剤の量とかを余り考える必要がない。変わらないからだ。例えば食事。最近は朝はグラノーラ、昼はゼリーとチョコレートバー、夜はハンバーグとご飯と、メニューが固定されている。だから一度グラノーラを買ったりハンバーグを10日分買ったりすればしばらくは買い物に出なくてもいいわけだ<ただし、昼食については朝の散歩を兼ねているために毎日買っている>。毎日メニューが同じでも飽きるということは無いのだが、ブログで食事について書くことなどはできなくなってくる。ネタ探しに困るわけだ。毎日の自動化された手順を実行するとき、何も考えないでできるようになってしまう。これは日常の中から得られる情報が減ると言い換えてもいい。これはあまりいいことではない。特に学習し続けようとしている者にとっては。

ただ、問題を認識できている時点でこれは改善することができる。その作業そのものについて考えることが減ったなら、別のことを考えればいい。自動化された作業の合間に意味ある時間を作ればいい。すべての問題解決はまずその問題を認識することからはじまる。解決する問題があるからこそその解放を考えることができるのだ。ブログのネタは習慣を少しメタ的に捉えて習慣形成の方法を書いてもいいわけだし、家事以外の自由な時間にボーッとしたり考えを深める時間を作ってそのことについて書けばいい。やりようなんていくらでもあるのだ。まずは問題を認識して、どう変えたいのかゴールを設定することと期日を作ること。そうしてできた解決法を実行すれば問題は解決されるはずだ。まずは認識すること。これが大切だ。問題を探すためにも日常に疑問を持ち続ける眼を養いたいものだ。


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毎日に意味をもたせたい。それにはどうしたら?

働けない人生に意味はあるのかと知人に聞かれたことをきっかけに、今過ごしている毎日に意味はあるのかと考えた。結局意味なんて評価基準で変わってしまうものだから他人にそれを尋ねるのは間違いだという結論に至った。そして、自分で目標を持って、それに向けて動的な日々を過ごさなくてはただ毎日が反復されてしまうのではないかと考えるようになった。意味は自分で見出すものだし、それを充たすのも自分自身でしかないと私は思う。反復される毎日にしないために........毎日を少しでも意味あるものと思い込むためにはなにができるのかを考えてみようと思う。

これを考えるきっかけとなったのは最近再開した人間関係だ。今年のはじめ入院していたときに知り合ったAという女性。Aとは1週間くらい時間をともにした。彼女は統合失調症だ。色々な妄想や、「自分の思考が他人に聞こえている」という考えに囚われていた。私は彼女の語る物語が面白かったから彼女の話をよく聞いていたし、それに対して意見を述べたりしていた。彼女は<奇妙な考えに固執していながらも>聡明で色々な考えを理解する面白い話し相手だった。でも退院するまで連絡先を交換することはなかったし、この関係は院内で終わるのだなと考えていた。そんな彼女が先月の中盤くらいに急に電話をかけてきた。精神科特有のルールなのかどこの病院でもそうなのかは知らないが、院内での連絡先の交換は禁止されていた。それでも看護師に隠れて連絡先を交換した人が5人ほど居る。その中のひとりから連絡先を教えてもらったらしい。

彼女は一度連絡がつくと味をしめたのかたくさん連絡してくるようになった。グループホームに入ろうと思っているが入居するまでの期間が不安だから入るまでの過程を教えて欲しいという話がはじめの連絡する理由だった。しかし時間が経つにつれて、自分の考えていることが私に伝わっていないかの確認の電話になり、精神が不安定になったときの安定剤的話し相手としての電話に変わった。私としてはいい迷惑だ。勉強している時間だろうと寝る前の準備をしている時間だろうと構わずに電話がいきなりかかってくる。はじめは人助けの気持ちで対応していたが、それにも限度がある。Aには悪いがフェードアウトしていくように連絡頻度を落としてもらおうと思う。

さて、冒頭の「働けない人生に意味はあるのか」という問いはAが訊いてきたことだ。彼女は自分の考えていることを<何に注意を向けたのかというレベルで>読んでいる人がこの世に何人もいて、それが身近なところにもいると信じている。そんな中で働くなんて恥ずかしくてできないと言うのだ。確かにそんな人が沢山いるのならば恐ろしいだろう。でもスマホ等を使っている時点で既にかなりのデータを私達は提供しているわけだ。それにそんなに細かいレベルで心を読んでいるならばその人はその人自身の生活をまともにすることができないのではないか?第一、人生の意味なんて客観的に決められるものではないと私は思っている。

人生の意味について考えることは悪いことではないと思う。私も高校時代に考えた。その時の私は生活保護を受けたり児童養護施設で社会の資源を使っているにも関わらず、将来的に恩送りできる見込みが薄いことを嘆いた。その結果損切りするための自殺の実行<結局失敗したが>をしたりしたものだ。この考え方に転機が訪れたのはAと出会った入院時だ。Aとは別の、強迫性障害を持っていたFちゃんと沢山話しているうちに、彼女の症状が改善されるのを見た。入院して治療しているのだから当たり前のようだが、看護師のひとりが私に「森さんと話すようになってから症状が劇的に良くなった」と言ってくれた。後で調べると患者同士でカウンセリングをするピアカウンセリングというのがあるらしい。それを無意識的にできていたのだ。それを知ったときに私は人生の意味なんて自分で決めるものでも他人から決めれられるものでもなくて、偶発的に役割を果たすものなんだなぁと強く感じた。

だから私は人生に意味がないと自分で思ってしまうことについては問題視していない。無自覚でもどこかしらで役割は果たせていると思うからだ。ただ、日々の生活の中で意味のない1日を過ごしてしまったように感じるのには問題があると思っている。なぜなら、それは自分が変われていないという実感であり、その思い込みから生産性が落ちたりネガティブな行動をとりがちだからだ。そんな中で目指すべきは移動し続けることなのではないかなと思う。方向はどこでもいいからとりあえず動くことが大事。もといた所に結果的に落ち着くこともあるかもしれないが、前日と比較して確かに別のところにいるという実感が必要だと思う。同じことを繰り返して成長できない。それほど恐ろしいことはない。

では動き続けるためには何をする必要があるのか。それは指向性を与えることと力を加えることだ。無闇に動こうとしても結局何にもできていないことは珍しいことではない。厳密に言えば必要ないのかもしれないが、中期の目標を立ててそれに向けて動くのはある程度行動に指針を持つのに役立つ。そして、作った目標を達成するために力を与えること。言い換えれば努力すること。私はこれを「惰性に逆らうこと」だと思っている。日常の中で少しだけでも惰性に逆らって勉強してみたり行動を変えてみたりする。そうすればその日の最後に「これは頑張れた」と思えるはずだ。これの繰り返しで成長し自己肯定感も高まっていく。

もちろん毎日変化を起こすのは難しいし、目標の立て方も慣れないうちは難しい。私も目標の立て方については経験不足もあって上手ではない。けれど、それを自覚して変えていこうと思っていることで既に惰性に逆らっているではないか。そんなラクな姿勢でも構わない。何を頑張っているか自覚することで日常に意味を見出すことはできる。

人生の意味を考えると難しくなるけれど、それはコントロールできないものと割り切って、日常に意味をもたせることに集中する。こんな考え方もあるのだと参考にしてもらえれば嬉しい。私はこの考えに至れてから生活がぐっとラクになった。


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おやすみ

今日はサポートティーチャーやった後にPCに音楽のデータを食べさせた。そんなことをしていたらあっという間に時間は経ち、記事の骨組みを書き出すころには10時になっていた。10月に入ってからは生活リズムを整えることに重きをおいている。案外いい感じで回せているからこのまま続けようと思っている。そのために今日の記事は明日の午前中に回すことにした。明日の記事は明日の記事で夜に投稿する予定。よろしく。

寒くなった。懐も寒い

今日はとても寒かった。部屋にある時計は23℃だと言うけれど、体が震えるくらい寒い。雨が降っている影響もあるのだろう。一気に寒くなった。今年一番の冷え込みなのではないか?テレビがないから天気予報は見られないがついったで流れてきた情報ではしばらくは雨らしい。雨は好きだし寒いのも嫌いではないけれど、それは付き合う方法があるからだ。寒さを程よく軽減する衣類が今は無い。影響をダイレクトに受けるから少し寒さに対する思いも冷えてしまう。

そんな気候的な寒さと一緒に懐の寒さもやってきた。月初めに生活保護費が入ったうちから7万円口座から引き落として、この5日で5万円くらい使っている。主な用途は書籍<電子書籍リーダーを含む>と食費だ。1日1万円ペース。どう考えても生活保護を受けている人間のお金の使いかたではない。健康的で文化的な最低限度の生活とはこれいかに。本だけが文化的な生活を作るというわけではないだろう。家事をするのに必要な雑貨や衣類を買うのも必要だ。どのように管理したものだろう。

先月の家計簿アプリの分析を見てみると家電に8万円、食費に3万円雑費に3.5万円という感じだった。いま財布の中にあるお金だけで過ごそうとしたら食費だけで精一杯だ。家電を買う必要がないにしても生活する中で必要なものは出てくる。それをないがしろにして本にお金を使ってしまった。まだまだ今月も先は長いのに無謀なことをしてしまったものだ。通院費や職場までの交通費を捻出できるかも怪しい。そんな中でも生活はしていく必要がある。

買ったのは本だけではない。PCにかわいいスッテカーを貼りたくてそれを買ったのと、服<それも秋も半ばなのに半袖のTシャツ>を買った。この請求書はまだ届いていなくて、後日払わなくてはいけなくなる。大体0.7万円くらいだろうか。残り2万円の財布にはかなり重いパンチだ。

幸いなことに口座にはまだお金を残してある。光熱費の引き落としようにおいているのだが、月末食べるものにも困ったら少しおろして使える。ちょっぴり心強いセーフティネット。これも使いすぎるわけにはいかないが安心感を得るためにはこう考えないとやっていられない。

お金は下ろしたときに分割しておくべきだということがよくわかった。生活のためのお金と自由に使えるお金、それから予備のお金。まだ役割を持っていないお金たちに大まかでも役割を与えてやる必要がある。今まで私はこれらすべてのお金を一緒にして財布に入れていた。でも、そうするとお金があると錯覚して本にお金を使ってしまう。家計簿アプリで過去のお金は分析できても未来のお金に役割を与えることはできていなかった。

そしてこのお金の進路選択をしっかりとしていくためには過去の分析と習慣の形成、考えることが必要だ。例えば先月の食費は3万円だったから今月も同様に考えられる。これが過去の分析だ。また、朝は〇〇昼は△△、夜は300円までの惣菜と冷凍ご飯を食べると決めておけば月にいくらかかるかを計算できる。これが習慣の形成だ。そしてどんなことが想定されるのかに考えを巡らせること。例えば季節の変わり目で服にお金を割かなくてはならないこととかを考えること。これらが非常に大事だと思う。特に私のように先のことを考えるのが苦手な人間にこそ必要な考え方ではないか。

私はまだ一人暮らしを初めてひと月だから習慣の形成に特に力を入れるべきだと思う。まだ運用期間が少ないから生活を買えるのも比較的簡単だ。それに金欠のおかげで生活様式を無理にでも変えないといけないということもある。金欠という状況をより質素な生活への変化のきっかけに使えるといいな。


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変化していく価値観。残り続けるものってどんなもの?

ものの見方について少しショックな出来事があった。道端に咲いている花を見たときに、その花の名前がわかった途端に興味を失い観察するのをやめている自分がいた。以前の自分ならもっと細かく観察したり、もしかしたらそれに関する文章を書いていたかもしれない。花の色や葉の配置、近くに咲く花とのバランス。これを今までは堪能していたのにそれをやめてしまっていた。名前を知るだけでわかったつもりになっていたのだ。総称を知るだけで個別の場合を知ることなんてできるはずがない。その基本を忘れていたのだと思う。これは何も花だけに限った話ではない。たとえば財布。これはお金を入れる機能を持ったものである。しかしこれをメインの見方にするとそれが持つ光沢だったり、肌触りを感じることが難しくなる。先入観が邪魔をしてものをきちんと見れず、発見が減ってしまっていた。ひとつのものをじっくり見るなんて、余計なものを削ぎ落とした感性を持ちたいのなら必要のない技術なのかもしれない。ただ私は生活は質素に感性は豊かにありたい。何でも「余計なもの」として片付けたくないのだ。

これから歳をとってものを忘れたり、いろいろな見方を獲得して選択したりしていくことになる。この先に残っていくものはどんなものなんだろうか。

ここ最近2年では物事は0・100的な思考には限界があるし苦しいなということ、バランスが大事だということがわかってきた。これは私の考えのベースになりつつある。また、最近感じているのはゆったりした、満たされた時間というのは大変に良いものだと言うことだ。

これらの考え方は気付いたらその時から質量を持っているというわけではなかった。裏付ける実感を持ったエピソードと結びつくことで感覚に落ちてきた。エピソードを質量を持ったものにできるかは自分との対話ができるかによると思う。私が前段落のふたつの価値観を質量を伴って持ちはじめたのは入院していたときとGHで生活して治療に専念しているときだった。どちらも時間があって、自分と向き合う機会としては最高のものだった。それを手助けしてくれたのは自分が求めているのはなにか?という問いだったりするのだが、それを考える時間があったというのは大きかった。

結局価値観として残り続けるアイデアというのは、自分で発掘する必要があるのだと思う。本で知ったことや他人から聞いた話でも実際に自分で行動しなくては仕方がないのだなと思う。常に動き続けることと、やってみること。他人が共有してくれるのはあくまで価値観のもとであって価値観そのものではない。価値観は自分なりに獲得する必要がある。信念を作るという意味では最大の教師は自分自身だということだ。本は参考書みたいなものだ。実際に手を動かさないと技能としては身につかない。本はアイデアを自分で再発掘したときに気付けるセンサーを増やす手段というべきだろうか。

最近私はついったでつながっている気楽さんのキャスを見た。彼の即実行という行動信念は正しいなと思った。でも、これだけでは足りない。実際に行動に移してフィードバックを回さなくては。そう思って、TODOリストを手軽に作って管理できるアプリを入れて何にでも締め切りを作って即実行できる仕組みづくりをした。こうして、質量を持った言葉として「即実行することはだいじ」というアイデアが自分に刻み込まれていくのである。

何が最後まで残るのかなんていうのはわからない。だけど、残るものはこうして実感を伴う形で信念化したものなのだろうと思う。自分で考えて、発掘することは結構難しい。それでも問い、考え続ける生活をしていきたいと思う。


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1日が小さくなるとき。濃密な時間をたのしく

私にはどうも0か100で考える癖があるらしい事に気がついたのは今年のはじめ、入院していたときだ。何でも極論を振って判断するものだから融通がきかない。適当な性格に見せながらもどこかに制約を持っていて暗黙のルールを自分に課している。そんな糸がピンと張ったような責任感の中に生きてきた。オール・オア・ナッシング。なくすこと、減らすことに非常に臆病だった。

今思うと1日の過ごし方についても0か100かの極端なところが大きい。どこかにでかけたりして思う存分知識・スキルを獲得する日があったかと思えば、何もしないで1日中寝て過ごして記憶がまったくないなんてことが少なくない。この傾向は昔のほうが強かったと思う。小学生のときは毎日毎日を大事に生きてたんだなということを最近になってしみじみと感じる。小学3年生の頃の記憶はかなり強くて今でも鮮明に1日を再現できる日もある。それだけ色濃い日<と全く記憶に残らない日>を過ごしてきた。記憶に残る日とそうでない日があるのは当たり前じゃないかとの意見もありそうだが、毎日日記を書いていた<今はブログになっている>身としてはそれは否定したい。充実した日と空白の日。その差は顕著でその間で過ごした日はほぼ存在しなかった。

そして過ごされる日というのはその日のためだけにあるのだった。つまり、なにか決まった方向性を持って歩んでいくと言うよりかは毎日ランダムな方向に全力疾走するような生活をしていた。結局終着点はスタート地点だったりする。明後日にテストがあろうが関係ない。ゲームがやりたければやったし、本が読みたかったら本を読んだ。0・100思考とこの1日に対する猪突猛進感が何を作るかと言ったら「飽き性な器用貧乏」なのだが、この話はおいておこう。ただ、生活の基盤は「1日」、すなわち今日という単位で、今を生きるという言葉を体現するかのような生活を送っていたのだ。先のことなんて見えてはいない。これを大きな1日と表現したいと思う。

それが最近になって様子が変わってきた。繰り返される1日がフラットになって、1週間という単位で波打つように充実した週とそうでない週とに分かれてきた。当然1週間を作るのは1日たちだ。それは間違いない。ただ、質量が小さくなったと言うか、「1日」が1週間の部品化した。今まで直面してきた「1日」は立ち向かうものでも生活の基盤でもない「1週間」の一部になった。例えてみれば、今までは1日という作品を作るのにヒイヒイ言っていたのに対して、最近は1週間という作品を作るのに1日を使っている感じ。数学ではじめは数時間かけて勉強した有理化を、習った後の課程では当然のように使うのに少し似ている。

ちょっと抽象的で記述的な話になってしまった。具体的に話してみようと思う。今までは1日を生きるのに精一杯だった。家事や洗濯をしなくてはいけないし、自分の気分を安定させるのがとても大変だった。それがGHに入って世話人さんの支援等を受けながらやってみるうちに慣れて自動化されていった。気分も安定している。生活の基礎が自動化されてきた感じ。基礎ができたらその上に建築物を立てることができる。それが1日の役割の分化だった。生活を回せるようになったから仕事を始めた。母校で勉強を教える仕事が週に3日。その他の4日。これが違う役割を持つのは当たり前のことだろう。掃除や洗濯はその他の4日間でやらなければならない。これのおかげで、クオリティの高い1日を作ろうという意識がクオリティの高い1週間を作ろうという意識へと移っていったのだ。

こんなことには毎日学校に通うのが当たり前の高校生生活、毎日何もしないのが当たり前の治療生活では気付けなかった。仕事によって作られたメリハリによって気づくことができた。嬉しい誤算だ。感謝したい。

歳をとると時間が経つのが早く感じられるというのはよく知られている。以前は時間あたりに得られる情報の量で体感時間は決まるのではないかと考察したが、今回はもうひとつ考えてみたい。それは歳をとって生活に慣れてくると扱える時間のスパンが長くなる。それで1日が小さくなって時間が早く感じられるのではないかということだ。やるべきことも増えるだろうがその時間もルーティン化してしまえば空白の記憶に残らない時間になりうる。こうして体感時間はどんどん早くなってしまうのではないか。まだ固まりきっていない理論だがなんとなくそのように思う。

私は薄っぺらい時間を長く過ごすよりは、濃密な時間を短く過ごすほうが好きだ。そのほうが楽しいから。好奇心を持って1日1日に真摯に向き合っていきたいと思う。長い時間を扱うためには反復練習が必要なのも数学に似ている。長いスパンの計画をうまく扱う能力を育てながら、好奇心を持って充実した日々を送りたいものだ。それにはまだまだ練習が必要だ。ゆるゆるとやっていきたい。


このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。