アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

変化していく価値観。残り続けるものってどんなもの?

ものの見方について少しショックな出来事があった。道端に咲いている花を見たときに、その花の名前がわかった途端に興味を失い観察するのをやめている自分がいた。以前の自分ならもっと細かく観察したり、もしかしたらそれに関する文章を書いていたかもしれない。花の色や葉の配置、近くに咲く花とのバランス。これを今までは堪能していたのにそれをやめてしまっていた。名前を知るだけでわかったつもりになっていたのだ。総称を知るだけで個別の場合を知ることなんてできるはずがない。その基本を忘れていたのだと思う。これは何も花だけに限った話ではない。たとえば財布。これはお金を入れる機能を持ったものである。しかしこれをメインの見方にするとそれが持つ光沢だったり、肌触りを感じることが難しくなる。先入観が邪魔をしてものをきちんと見れず、発見が減ってしまっていた。ひとつのものをじっくり見るなんて、余計なものを削ぎ落とした感性を持ちたいのなら必要のない技術なのかもしれない。ただ私は生活は質素に感性は豊かにありたい。何でも「余計なもの」として片付けたくないのだ。

これから歳をとってものを忘れたり、いろいろな見方を獲得して選択したりしていくことになる。この先に残っていくものはどんなものなんだろうか。

ここ最近2年では物事は0・100的な思考には限界があるし苦しいなということ、バランスが大事だということがわかってきた。これは私の考えのベースになりつつある。また、最近感じているのはゆったりした、満たされた時間というのは大変に良いものだと言うことだ。

これらの考え方は気付いたらその時から質量を持っているというわけではなかった。裏付ける実感を持ったエピソードと結びつくことで感覚に落ちてきた。エピソードを質量を持ったものにできるかは自分との対話ができるかによると思う。私が前段落のふたつの価値観を質量を伴って持ちはじめたのは入院していたときとGHで生活して治療に専念しているときだった。どちらも時間があって、自分と向き合う機会としては最高のものだった。それを手助けしてくれたのは自分が求めているのはなにか?という問いだったりするのだが、それを考える時間があったというのは大きかった。

結局価値観として残り続けるアイデアというのは、自分で発掘する必要があるのだと思う。本で知ったことや他人から聞いた話でも実際に自分で行動しなくては仕方がないのだなと思う。常に動き続けることと、やってみること。他人が共有してくれるのはあくまで価値観のもとであって価値観そのものではない。価値観は自分なりに獲得する必要がある。信念を作るという意味では最大の教師は自分自身だということだ。本は参考書みたいなものだ。実際に手を動かさないと技能としては身につかない。本はアイデアを自分で再発掘したときに気付けるセンサーを増やす手段というべきだろうか。

最近私はついったでつながっている気楽さんのキャスを見た。彼の即実行という行動信念は正しいなと思った。でも、これだけでは足りない。実際に行動に移してフィードバックを回さなくては。そう思って、TODOリストを手軽に作って管理できるアプリを入れて何にでも締め切りを作って即実行できる仕組みづくりをした。こうして、質量を持った言葉として「即実行することはだいじ」というアイデアが自分に刻み込まれていくのである。

何が最後まで残るのかなんていうのはわからない。だけど、残るものはこうして実感を伴う形で信念化したものなのだろうと思う。自分で考えて、発掘することは結構難しい。それでも問い、考え続ける生活をしていきたいと思う。


このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。