アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

1日が小さくなるとき。濃密な時間をたのしく

私にはどうも0か100で考える癖があるらしい事に気がついたのは今年のはじめ、入院していたときだ。何でも極論を振って判断するものだから融通がきかない。適当な性格に見せながらもどこかに制約を持っていて暗黙のルールを自分に課している。そんな糸がピンと張ったような責任感の中に生きてきた。オール・オア・ナッシング。なくすこと、減らすことに非常に臆病だった。

今思うと1日の過ごし方についても0か100かの極端なところが大きい。どこかにでかけたりして思う存分知識・スキルを獲得する日があったかと思えば、何もしないで1日中寝て過ごして記憶がまったくないなんてことが少なくない。この傾向は昔のほうが強かったと思う。小学生のときは毎日毎日を大事に生きてたんだなということを最近になってしみじみと感じる。小学3年生の頃の記憶はかなり強くて今でも鮮明に1日を再現できる日もある。それだけ色濃い日<と全く記憶に残らない日>を過ごしてきた。記憶に残る日とそうでない日があるのは当たり前じゃないかとの意見もありそうだが、毎日日記を書いていた<今はブログになっている>身としてはそれは否定したい。充実した日と空白の日。その差は顕著でその間で過ごした日はほぼ存在しなかった。

そして過ごされる日というのはその日のためだけにあるのだった。つまり、なにか決まった方向性を持って歩んでいくと言うよりかは毎日ランダムな方向に全力疾走するような生活をしていた。結局終着点はスタート地点だったりする。明後日にテストがあろうが関係ない。ゲームがやりたければやったし、本が読みたかったら本を読んだ。0・100思考とこの1日に対する猪突猛進感が何を作るかと言ったら「飽き性な器用貧乏」なのだが、この話はおいておこう。ただ、生活の基盤は「1日」、すなわち今日という単位で、今を生きるという言葉を体現するかのような生活を送っていたのだ。先のことなんて見えてはいない。これを大きな1日と表現したいと思う。

それが最近になって様子が変わってきた。繰り返される1日がフラットになって、1週間という単位で波打つように充実した週とそうでない週とに分かれてきた。当然1週間を作るのは1日たちだ。それは間違いない。ただ、質量が小さくなったと言うか、「1日」が1週間の部品化した。今まで直面してきた「1日」は立ち向かうものでも生活の基盤でもない「1週間」の一部になった。例えてみれば、今までは1日という作品を作るのにヒイヒイ言っていたのに対して、最近は1週間という作品を作るのに1日を使っている感じ。数学ではじめは数時間かけて勉強した有理化を、習った後の課程では当然のように使うのに少し似ている。

ちょっと抽象的で記述的な話になってしまった。具体的に話してみようと思う。今までは1日を生きるのに精一杯だった。家事や洗濯をしなくてはいけないし、自分の気分を安定させるのがとても大変だった。それがGHに入って世話人さんの支援等を受けながらやってみるうちに慣れて自動化されていった。気分も安定している。生活の基礎が自動化されてきた感じ。基礎ができたらその上に建築物を立てることができる。それが1日の役割の分化だった。生活を回せるようになったから仕事を始めた。母校で勉強を教える仕事が週に3日。その他の4日。これが違う役割を持つのは当たり前のことだろう。掃除や洗濯はその他の4日間でやらなければならない。これのおかげで、クオリティの高い1日を作ろうという意識がクオリティの高い1週間を作ろうという意識へと移っていったのだ。

こんなことには毎日学校に通うのが当たり前の高校生生活、毎日何もしないのが当たり前の治療生活では気付けなかった。仕事によって作られたメリハリによって気づくことができた。嬉しい誤算だ。感謝したい。

歳をとると時間が経つのが早く感じられるというのはよく知られている。以前は時間あたりに得られる情報の量で体感時間は決まるのではないかと考察したが、今回はもうひとつ考えてみたい。それは歳をとって生活に慣れてくると扱える時間のスパンが長くなる。それで1日が小さくなって時間が早く感じられるのではないかということだ。やるべきことも増えるだろうがその時間もルーティン化してしまえば空白の記憶に残らない時間になりうる。こうして体感時間はどんどん早くなってしまうのではないか。まだ固まりきっていない理論だがなんとなくそのように思う。

私は薄っぺらい時間を長く過ごすよりは、濃密な時間を短く過ごすほうが好きだ。そのほうが楽しいから。好奇心を持って1日1日に真摯に向き合っていきたいと思う。長い時間を扱うためには反復練習が必要なのも数学に似ている。長いスパンの計画をうまく扱う能力を育てながら、好奇心を持って充実した日々を送りたいものだ。それにはまだまだ練習が必要だ。ゆるゆるとやっていきたい。


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