アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

夢をみはじめた私

9月になった。せっかくだからと大気も気を利かせたのか、昨日までが嘘のように思える涼しい1日だった。

今日の私は遅く起きた。目覚めた時間こそ早かったものの、布団に吸い込まれるようにして5時間近く追加で寝た。普段は早朝の散歩でしているブログのアイデア出しも、今日はできなかった。

夜のひやりとした風に会いたくて、私は散歩に出ることにした。近所の公園まで歩き柑橘系の炭酸飲料を買って帰る。その間にツイキャスで話しながら文章の構想を練ろうという算段だった。

ツイキャスにはあまり人が来なかった。時間の問題もあるし、私のキャスの性質上の問題もあるだろう。それでも1人は居続けてくれたから、武術や、一点において能力が高い人の振る舞い方について話したりした。その途中で出たのが「夢」の話だ。

私は「昨晩の夢」という文脈で使われている夢とは親しくしているが、「将来の夢」という文脈で使われている夢とはあまり馴染みがなかった。自分の持つ障害のせいか彩度の高い夢を見ることはあっても、将来のことを想像するのは、とても難しくてまともに向き合うことができなかった。

キャスの中でミネルバ大学に入りたいという話をした。違和感。......まてよ?これは他ならぬ「夢」ではないか。そういうわけで今回は「将来の夢」という文脈で使われる夢の話をしたいと思う。キャスでは今日の文章で詳しく書くと言っておいた。

おおよそほとんどの人は一度は将来の夢というものを見たことがあるのではないか。その職業になる過程は知らずとも、〇〇になりたい!というそれだ。最近ではYouTuberになりたい子どもが増えたという。昔にはなかったエンターテイメントに関わる仕事だ。需要も増えているように思う。これを心配する傾向もあるようだが、やりたいことに挑戦できる子どもが増えるなら構わないと私は思う。

私にも小学1年生の頃には将来の夢というものがあった。宇宙飛行士と校長先生だ。何に影響されたかを今から振り返るのは容易い。つくばに住んでいたからJAXAや科学館等のリソースに触れる機会が多かったことと、祖母が校長先生をやっていたことだ。思いつく仕事といえばそれだけで、それを将来の夢として答えたのだと思う。もっとも今は虫歯ができたことや将来のことを考えずに生活してきたせいで宇宙飛行士になるのは難しいと思うが、心の中の宝石としてとっておいている。教員という夢も、私は教育が格差是正に一役買うと思っているから、中途半端なままに持ち続けている。

ただ、この2つの夢は長持ちしなかった。環境に作られた幻想のような気がしてしまったからだ。今でも思うことはああるのだが、過去の出来事や記憶が今の自分を形作っていることに嫌悪感を抱いたらしい。真なる自分を探し出そうと思ったのか、2つの夢は遺棄された。

こうして作られたのが宙ぶらりんな私。今日から生活保護が決まって、職業を今から考えるような私だ。江戸時代の「宵越しの銭は持たない」で成り立っていた制度が少し羨ましい。将来のことを少しは考えて動かなくてはならなくなった。

このまま順当に生きていったら作業所に入って働きながら就職活動をして、GHを出ることになる。適当な職に落ち着いたら、今は行きたがっている大学に再挑戦することもなく、ぼんやりと濁った思想とともに暮らすのかもしれない。

これが今の私の現実だ。

この記事の構想を練っているときに、夢とは惰性で暮らしていては得られない別の現実のことではないかとふと思った。それならば将来の夢という壮大なものでなくても良いから、私にも思い描くことができる。

正直、世の中は不平等だと思っている。誤解を恐れずに言えば、私は今も塀の向こうで暮らす重罪人の息子で片親育ちだし、母からの虐待で児童養護施設に入っていたこともある。今の経済状況も家庭の環境も、悪い。日々母の機嫌の悪さのエネルギーが妹や私、家具等に向かないように気を張らなくてはならない。とあるコミュニティーで繋がれている、普通を謳歌している人たちを羨ましく思うことも少なからずある。

ただ、現実をすぐに変えることはできなくても、見る世界を変えることはできるのだとこの数年間で感じている。正直これはきれいごとだと思う。自分で書いていて、過去の自分が見たら気味悪がるだろうと言うことが容易に想像できる。でも、フィルターを変えれば現実の別の一面に気がつくこともできると思う。そう、画像編集ソフトでコラージュを見抜いてしまうように。

私はひょんなことから、日本のすごい奴らが集まっているコミュニティーの一員になって、海外進学をする人や留学する人たちを見ることができた。そのきっかけは一言で言ってしまえば、「変わりたい」ということを言語化して発信したということだ。

私の思考のスタートのキーとなるのは言語化だ。これは人によって違うと思う。ただ、言語化という作業を通じて自己理解を深められるというのは、多くの人にも当てはまるだろう。自分の悩みだったり現状、理想をアクセス可能な状態にしてやる。一度言語化してしまえば後で確認するときにも簡単だ。紙に書いたり人に向けて発信したらもっと効果が高いかもしれない。

今の社会はどんどん情報化が進んでいる。毎日迫りくる情報の波に乗り切れず、埋もれてしまうことも珍しくないだろう。ただ、裏を返して言えば自分の情報をその波にそっと混ぜてしまうことも可能だ。

これはポジショントークになってしまっていると思うが、私はFacebookやついったなどでこれまで発信できなかったことも発信してほしい、と言いたい。特にFacebookでは沢山の、成長を見込めるイベントやワークショップがある。あくまで情報の主導権は持ち続けたまま、それらに少しずつ首を突っ込んでみよう。のうのうと惰性で生きてきた世界とは別の世界がそこには広がっている。

私はまだ19だ。生活保護を担当するケースワーカーさんには就職だの大学だの色々言って申し訳ないが、正直いけるもんならリベラルアーツの大学に行きたい。それもお金をほとんどかけずに。

その中で最近出てきた選択肢がミネルバ大学の受験だ。合格して通うことは、正直今の状態からでは奇跡的だ。だが、行けるのなら私の持つあらゆるものを賭してでも行きたい。まあ、物的に持っているものなんてほとんどないのだが。才能とポテンシャルで勝負だ。

受験自体はオンラインの環境さえ整えれば無料で行えるので、これから毎年行っていきたいと思う。合間を見てTOEFLの受験も。JASSOと渡邊奨学金を受けられるならいつだって海外に飛びたいんだ、私は。勉強したい分野を決める猶予付きならという話だが。

最後の方は私の夢語りになってしまった。今持っている夢というのもミネルバ合格とかしか思いつかないからしょうがない。まとめると、夢は短期のものでも語れるのが大事だということと、それを発言として残しておくと良いということだ。

まだ私の夢は実現されるかわからない。応援してくれると嬉しい。


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