アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

2020/07/05の散歩

私は散歩を日課にしている。大体1時間から2時間位歩く。深夜に国道沿いを歩いておセンチな気持ちになったり、昼下がりに上水沿いを歩いてリラックスしたり。受ける印象や目的は様々だが毎日の散歩は欠かせない。今日もそうだ。都合よく投票という外出イベントがあったからそれに乗じて散歩に出た。普段の散歩は昼にできなければ深夜になることがざらだから、夕方に外に出れるのはラッキーだった、珍しかったと言える。東大和市駅から玉川上水駅までの木が茂る小路。今日はその散歩の様子を仔細に書いてみようと思う。要は今日の散歩で私は何を感じたのかをここにペーストしようということだ。

夕方に投票所に行ったのは6時頃だったか。日が大きく傾き始めた頃だと思う。投票を終えた頃には空が黄金色に変わっていた。そのまま家に帰らずに散歩するルートを考える。普段は市街をウロウロすることが多いが、今日は少し自然に触れたい。そう思って東大和の駅から玉川上水駅まで小路がつながっていたことを思い出す。正直、玉川上水までで出てそれに沿って武蔵野美術大学の近くまで行っても良かったのだが、行路と帰路が同じなのは面白くなかったし、時間がかかるからやめておいた。

東大和の駅に出る頃には空は燃えるような橙色に変化していた。写真を撮った。最近日が長くなったなと思う。そして、夜の帳が降りる前の空の変化は早いものだなと思いを巡らせた。駅についてからは黙々と歩いた。写真を撮ってから15分も経っていないだろう。それでも道は暗くなっていた。駅同士をを結ぶ道は3つほどある。北側の大きい通り2本と南側の小路だ。当然交通量も違う。私は自然を大いに感じながら歩いた。葉と葉が擦れる音、小さな虫の鳴き声、鳥の音。驚いたのはひぐらしの音が聞こえたことだ。早すぎるのではないか?そんなことを思う。ひぐらしについでカッコウが鳴く。なんとも間の抜けたコンビだ。面白くなって声を出して笑った。すると前方を歩く人が振り向いてきた。声が大きすぎたようだ。勝手がわからない。すっかりひとりの気分だったから気が付かなかった。会釈してやり過ごした。

隣駅まで歩くと言っても距離は大体歩いて15分くらいある。はじめの10分は自然を感じながら歩いた。本当だ。道の写真を撮ったり、上から見ると五芒星に見える植物を見つけてクックと喜んだりした。でも、途中で飽きた。冷めてしまった。カッコウひぐらしは相変わらずセッションを続けていたが、私には目に見える変化がなくなってしまっていた。ひょいと現れたゴミの処理施設の電光掲示板がしばらくメンテナンスに入ることを告げていた。へえ、塩化水素の濃度は20ppmなのか。基準値はどのくらいなんだろう。そんなことを考えたのを最後に私は外界に対して思考の反射するのを放棄した。自分の世界に入っていった。

どうも私の散歩には自分の世界に入るための儀式的な要素があるらしい。散歩してある程度疲れてくると、周りの変化を知覚しても反応しない。結果として自分の考えに浸り続けるなんてことがよく起きる。今日もそうだった。歩いていることだけに集中してその他のエネルギーを考えることに当てる感じ。「界隈には思考の速度に緩急をつけられる人が多そうだな」とか「私はほとほと凡人だと思うのに周りの人は慕ってくれている。騙しているようで悪いな」とか考えた。考えるというよりは昔そんなふうに思ったのを想起した感覚なのだが。なにか物事を初めて暫く経つと、細かいことを視野に入れなくなる。こんな性質が私にあるのだと思う。今、タイピングするときも、普段気になるカーテンのヨレには目が行かない。散歩はその中でも1番簡単な自分の内面に触れる機会なのだと思う。何を考えるのか<想起するのか>が比較的広く設定されているのが散歩なのかなと思う。

少し話がそれてしまった。でもこんな感じ。散歩ちうに、ふと話をそらすかのように考え事に頭が切り替わったのだ。それに気がついて、思いついたことはあまり考えても答えは出なさそうだなと思った。して、もとの散歩の状態に戻すべくコンビニに行った。人と接触したり、集中していることの他の作業を挟むと閉ざされた状態から少し離れられる。ガムの一片と炭酸飲料。それらを腹に入れて休憩した。そして、散歩に変化をもたらすべくキャスを始めた。

キャスは面白かった。調子が良かった。いつもは緊張してしまうのか間が空いたり声が震えたりするのだが、今日はなかった。先の「騙しているようで悪いな」という思いを少しでも和らげるためのキャスだった。ありのままの自分を発信できたらいいなという希望が入っていた。ゆるゆるとWiFiのことや18切符のこと、私の経験のこと<全工協の海外研修>を話した。ついで思考の速度の話もした。ネタがないと話せないのだなと思った。実際考えたことは全て話してしまっている。考えていることは話していること。私はどうも単純でそんなことが言えそうだった。そう考えるとどうも私は思考の速度はいじれないようだなと言うことに気がつく。良い発見だ。私は集中の邪魔になるものを避けることで思考の精度を上げる。思考は存在しないなんて思うことはあるが、反応の癖だと理解すればいいんだろうなということにも気がついた。

キャスを終えると自宅まで15分程度の場所にいて、その後は特に何も考えることなく帰った。途中で立ち止まってついーとを作るなどした。なんとも受動的な散歩なんだと今思う。最初は勢いで出発して、その後は惰性で歩き続ける。はじめこそ余剰なエネルギーが自然だったり町並みに興味を示す。それが終えるとただ歩き続けるマシーンになる。それを避けるべくキャスとか変化を起こす。結局キャスでも歩きながらしゃべるマシーンに過ぎないのにね笑 それでも。散歩が私にもたらす変化は良いものが多いのだろう。少なくとも部屋にこもりきりで本を読み続けるよりは健全な匂いがする。単に直感だが。こういうときの直感には経験的に悪いものは少ない。だからこそこれからも私は散歩を習慣として続けるのだ。

この散歩で私は一体何をした?体を動かした。そして少しだけキャスのコツを掴んだ<ような気がする>。この程度かな。恩恵という意味では散歩はイマイチわかりにくい。もう少しはっきりと良いものだとわかる散歩をしたいとそう思った。

このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった