アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

言葉をつなぐちから

当たり前だけど、私達は言葉を巧く操りながら生活している。人と人の間を埋める媒体としてノンバーバルなものが占める割合は情報量としては大きいけど、言葉ほどフォーマルには扱われることは少ない。今日私は高校で借りていた奨学金の返済猶予延期申請書を受け取って、そこに名前と経済状況を記入した。これも言葉によるコミュニケーションといえる。

私には悩みがある。悩みと言うか持病による症状と言うかの判断は難しいけど、困っていて解決策を練るのが難しいから悩みには違いない。私は自分の感情の波を上手く昇華できない。

人のパフォーマンスには多かれ少なかれ波がある。これは当たり前だ。調子の良いときもあれば悪いときもある。でも、私に言わせると「ある程度人の形を保っている」というか、社会的だ。すり減りまくって反社会的な行動をする人もいることにはいる。でもそれは少数派で、皆気分の憂鬱さとか快調さは個人で消化している印象だ。

対して私。病名に自分を語らせるのは好きではないが、私は双極性障害を持っている。躁うつ病。感情の波がブチ上がったりテラ下がったりする。周期的にこのサイクルが回ってくるのだが、普通に感情の波に飲まれる。体があってその上に感情があるのではなく、感情ありきで私が存在するような感覚。上がっているときは体の疲労、経済的負担なんてそっちのけであっちこっちに飛びまわる。下がっているときは指一つ動かすのがしんどくなる。というか存在すること自体がしんどくなる。この傾向は薬で治療している今でも変わらない。完璧に直すことは難しい病気、一生付き合っていく病気なんだそうだ。

体に出る症状がしんどいことはもちろんだが、私が嫌なのは言葉をつなぐちからがコロコロ変わることだ。躁状態のときは飛躍の大きい単語同士をつなぐ傾向が強くなる。抑うつ状態のときは単語同士の飛躍が限りなく近づく。結果、躁状態では突拍子もない言葉たちに翻弄されて目を回し、抑うつ状態ではトートロジーめいた思考に考えを止められる。何も考えられない。毎日身長の違う生活をするとしたらこんな感覚なのかもしれない。使い勝手の変わる道具というのも面倒なものだ。

そんな変な道具を持ちながらも私は文章を書くのが好きだ。なぜならその時の自分がつなぐ言葉の痕跡をそこに残せるからだ。頭の中にある言葉を発出しないとき、頭の中はとてもぼやっとしている。言葉として出すときに結晶化されると言うか、はっきりする部分があると私はそう考えている。文章を書くときは大抵躁寄りの状態なのだが、頓珍漢な狂気を掬って一応文章の形に収まっている私の文章は自分で見る分には面白いし、自分の価値観の変化に気づくきっかけにもなる。

ところで私には蜘蛛の巣を採集していた時期があった。巣にスプレーのりと白いペンキをふきかけて、黒い画用紙に写し取る。その後、シールを張って保管するのだ。私が文章を書くことに面白さを見出すのは、この趣味がいい影響を与えてくれたのかもしれない。蜘蛛の巣と一口に言っても、きれいな多角形を描くものだけではなく、不定形のものもあった。巣を集めるには目を凝らしてそれらの巣をまず認知しなくてはいけない。そして、最もよくその巣を表すであろう面を決めなくてはならない。これは文章を書くときと同じだ。いつもと違う感情状態であると気づいて、それを言語に落とし込んでいかなくてはならない。厳密には言語に落とし込んだ瞬間にこわれてしまう脆い、繊細なもやもやもあるのだが、それはその時の私には技量不足だったのだと諦めるようにしている。

一応でもごちゃついた自分の言葉を標本にして撮って置けるのが良い。最近では、絵を書くことでも標本を作れないかと思っている。だから私の文章は人に見せるものではない。ただ、飾っておいておく、個人の言葉の羅列。少し、汚くても愛着を持って接することができる。そうはいっても読んでもらえることが嬉しい。ありがとうね。

半分以上つくられた思い出

定期テストが近づいていた。今回出題される範囲はどの科目も広く、大辞海をまんべんなく勉強しないと高得点を取るのは難しいと言われていた。嘘だ。そんなものから問題を出されてたまるか。あまりに広い範囲だったためにこういった冗談が生徒の中で流行っていた。「メソポタミア文明からフランス革命もやって、近代史に入るっておかしいんじゃないか」と生徒のひとりが世界史の範囲の広さにため息をついていると、すぐ後ろにいた教師が「広く浅く教えているはずだ。2周目以降はより詳細まで詰めて教える。一通り教えるのが私の授業の第一段階だ」と話していた。

学習は反復だ。自称進学校に属するなら何度も耳にするであろうエビングハウス忘却曲線はそれをよく表している。生命活動に関係しない記憶、五感の伴わない記憶、理解に落とし込めずに表面だけ掬った記憶。これらはすぐに忘却され、体から遠のいていく。遠のいた記憶をたぐり寄せるのは難しいし、時間がかかる。私は知識にアクセスできる状態のことを知っているというのだと思っている。例えば、テスト中はスマートフォン、インターネットを使えない。アクセスできる知識はカンニングペーパーや頭の中のそれということになる。そうなるとテスト中の知識量を上げるには教師の言うことが案外理にかなっているのかもしれない。

この学校は普通校と少し違うテストも行う。世界史や数学、国語のような普通の科目のテストに加えて分野横断のテストというものがある。ここで私達はコミュニケーションスキルや好奇心の強さ、検索の仕方や問いの編集方法に創造性のテストを受ける。どれも測るのが難しいものだと思うが、教員ふたりによる厳密なチェック体制と採点基準により成績やポートフォリオに反映される。私は問いの編集法と創造性のテストが得意だった。問いを答えやすい形にするのは楽しいし、身近なものの違う側面を利用して新しい使い方を考えるのは普段からやっていることだったからだ。こういったテストは多くの生徒から受け入れられ、このテストで求められるスキルの獲得を目的にこの学校に入る人もいるほどだった。なかにはディベートが好きだから入ってきたという知人もいる。ディベートもテストのひとつである。

そして、この学校には一芸に秀た生徒を集める、通称バラ組というクラスがある。バラと言うと薔薇と百合という漫画のジャンルのバラを想起する人がいるようだが、バラエティに富んだ組という意味でのバラ組らしい。最近はダイバー組とか新しい呼び方を考えようという流れもあるようだが、よく知らないのでここでは触れない。とにかく、いろいろな尖った奴らが入って来る少し変なクラスがあるということだ。かくいう私も実はそのクラスの一員である。なんでも特筆すべき長所はないが、ある程度何でもこなす人間がバラ組にもすこしは必要らしい。学年の主任の先生から直々に頼まれて、このクラスに入ることを了承した。「生徒たちの学びの化学反応」を謳う学校方針に隠れた、触媒としての存在だ。私はいわゆる器用貧乏だ。周りの人を見ると自分の能力の不足を感じてしまう。中には触媒生徒が周りに触発されて、優秀な生徒に変身することもあるらしいが、きっと私はそうはなれないだろう。

とまあ、私のいる環境についての説明はこんなところだろうか。私も少しは勉強をしなくてはいけない。放課後の教室には人がまだたくさん残っていた。高校も2年目になると皆余裕が出てくるというか、要領が良くなる。過去問を先輩から獲得したり、クラスの中から有志を募り2組に分けて合計点で競いあうなんていうのはバラ組ではよくあることだ。テストの合計点を競うサム競技や、各科目の最高得点の和で競うベストスコア競技があった。今回私は白組。小学校よろしく組分けは紅白なのだ。くじ引きで決められたこの組に正直愛着はない。ただ断る理由もなかった。せめて足を引っ張らないようにしなくてはいけないなと思う。

特に勉強のできるTという男がいた。彼は今回白組だ。彼は人前になると上がってしまう癖があって、コミュニケーションのテストでは平均を下回る点数をとっていたが、他の教科なら9割は堅いやつだった。彼はいつも生物学オリンピック日本代表のAや神経科学の専門書を読んでいるMとよく話し、勉強しているようだった。

しかし、今回の団体戦でTはAやMと別れてしまった。別に相手の組と一緒に勉強するのは禁止されているわけではないのだが、少しは気にしているのだろう。Tは教室の端の方で黙々と勉強をしていた。勉強と言っても、今回の範囲の応用問題の中でも特に難しい問題の演習だ。正直、とっかかりにくい。無理に付き合う必要もないのだが、めったに話したことのない人というのはそれだけで話してみたくなる。私の性だ。

「やっほー、T。勉強の調子はどう?国語とか苦手だから教えてほしいんだけど」「ああ、君か。数学はもう問題集を過去に3周していたから特に勉強しなくてもいいかな。国語か.......。この問題集がわかりやすいから貸してあげよう。今回、君は白組だったよね」「よくおぼえているね」「まあ、君は一般科目はそこそこできるってイメージだけど、分野横断のテストはすごく良いスコアを取るって噂を聞いたんだ」「そんなに大したことじゃないけどね。努力してできるようになったわけではないし」「努力だって?そんなもの僕だってしたことないさ。好きなことやってたらできるようになっていたって感じだよ。結果として良いスコアを残す事はあってもそれは結果だ。努力した証とは限らない」

確かに彼の言うとおりだ。私のコミュニケーションスキルは楽しくていろいろな人と話しているうちに培われた。案外私達は似た価値観を持っているのかもしれない。

「僕は君も知っていると思うがコミュニケーションを取るのが苦手でね。君にコツを教えてほしいんだ。よかったら週末うちに来ないかい?君は僕に勉強を見てもらえるし、僕は君にコミュニケーションの方法を教えてもらえる。いい関係だと思うのだけど」「悪くないね」「そうだろう?化学なんかは実際に実験を自宅のラボで行うこともできる。魅力的な提案じゃないか」

案外Tは押しが強かった。話はとんとん拍子に進んでいった。本当にコミュニケーションが下手なのか?もしかしたら話しすぎるコミュ障なのかもしれない。あるいは何か訳があってコミュニケーション能力を低く見せているか。不思議なやつだ。なんて考えているうちに話が進んで断りづらくなってしまい、週末Tの家に行くことになった。

Tの家は豪奢だった。高価そうな綩綖がテーブルの下に敷いてあった。飲み物をこぼしたらどうするのだろうかなど貧乏故に出てくる疑問を飲み込んで奥に進み彼の部屋に向かった。私はワンルーム6畳程度の寮に住んでいるのだが、彼の部屋は1.5倍はあるように思えた。部屋には本棚があり、几帳面にも十進分類法で整理されていた。機能面でもきっとそれが良いのだろう。彼の使う机は大きく、積ん読タワーが6本ほど建っていた。色々なジャンルの本が建てられていたのが彼らしい。

彼の勧めてくれた国語の参考書を読む。わかりやすいし、自分のレベルに合っているのを感じる。わからなかったことがわかる。面白い。2ポモドーロほど勉強したときにTと会話をした。

「今のテスト対抗戦っていつ始まったのか知ってる?」「ああ、3年前にはあったらしいよ。僕のお兄さんが言っていた。お兄さんの2つ上の先輩が始めたらしい」「今回白組は勝てるかな」「そういうことを考える前に手を動かさなきゃ。正直AとMの他にも優秀な一点突破型の生徒が紅組で、多士済々の顔ぶれだからベストスコアでは負けると思う。でも、サムなら勝機は全然あると思う。頑張ろう」

午後になって、今度は私がTに勉強<?>を教える番になった。よく出る、シルエットと材質からそのモノの用途を考える想像力のテスト、言葉の意味を検索して正しいものを選ぶ検索のテスト。この練習をまず最初にやった。例題は学校のホームページから手に入れることができる。私は過去に何度か解いたことがあったが、Tは初めてのようだった。

「これは.......棒か?紐がついているみたいだな。それで材質は......昆布または高分子?」<ラミナリア桿か.......ちょっと難しいかもな>。「これは食用ではなさそうだね。となると道具か.......」。「昆布......アルギン酸ナトリウム。高分子.......超吸水性ポリマー。水につけて使うものなんじゃないか?そうだな、大きな岩に穴を開けて楔のように使うみたいな感じで」

だいたい正解だったから回答を伝える。「ああ、医療用なのか。知らなかったよ。これ、事前知識無しで正解できる人はいるのかな」学校としては正解するかしないかは問題ではなく、問題にどのようなアプローチで臨むかを見ている体らしい。実際、この試験は面接のような形式でオンラインで実施される。教師の負担は大きいが、テストとしては面白い。MECEにのっとてあらゆる可能性を精査しているか、論理的に記述、論述できているか。それらが試されるのがこのテストだった。

「じゃあ次。ダブルフィストって言葉の意味を推測してみて。検索オーケーだよ」「そうか、ダブルフィスト......と。うん?アダルトサイトが大量に出てきたのだが。フィストってあのフィストだったのか。ダブルってどういうことなんだ。ひとつの穴に2つ?いや2つの穴にひとつずつ?ちょっと見てみようか。........うわ、すごいなこれは」

問題が悪かった。なんで学校のページにこのような言葉が載っているのだろう。しかも模試という体で。バラ組にはITに強いやつもゴロゴロいるからその中の性癖の歪んだやつが書き加えたのかもしれない。誰も知る由もないが、不適切な問だとして学校には報告しておいた。

結局、模試があるならばそれを解くのが最高の勉強法だ。範囲が広くても先生の特性を理解していれば問題なく対応できるだろう。そのことをTと勉強した1日で悟った。Tはあの後、様々な模試を解く中でコツを掴んだのか、正答率がみるみる上がっていった。このままの勢いで行けば、きっと誰も止められないだろう。

後日ほぼ満点を記録したTは私にタピオカミルクティをおごってくれた。私は別に何もしていないと思うのだけど、彼はどうしてもお礼をしたかったらしい。律儀なやつなんだと思った。クラス内での紅白戦はTの言ったとおりサムで勝って、ベストスコアで負けた。相手のベストスコアはすべて満点だったらしい。Tも3科目満点をとっていたが他の科目に満点がいなかった。結局景品のお菓子はクラスみんなで食べることになった。新しい人と親睦を深める意味でもこの紅白戦は面白いものだった。これからも良き伝統として続いてほしいと思う。私のテストは8割5分ほどでいつもより良かった。ありがとう、T。

テスト終わりのゲームで当方をプレイしたのだが、Q.E.D「495年の波紋」でピチュりまくった。東方難しい。

線を描くように。文章、それから絵。

1本、線を引く。それはどんな種類のものでもいい。破線波線直線曲線。何でも良い。それに次いでもう1本線を引く。交差させてもいいし、平行に引いてもいい。人によってこの2本の線は異なったものになるだろう。どんな線を引くかは自由だ。もしかしたら長い曲線で絵を描く人もいるかも知れない。

私は最近線を引くことにハマっている。ちょっと変な感じがしないでもないが、事実暇があれば線を引くことに夢中になっている。本を読んでいるとき、紙の本で使い倒してもいいと思えるものにはどんどん線を引いていく。線を引いたページは折り曲げて後から戻って読み直せるようにしている。また、文章を紙に書くこと。これも線を引く活動のひとつだ。横書きすることがほとんどで、下から上への接続が悪いときは文字を下から上に書いたりする。オリジナルな線の引き方が少しずつ確立されてきた。さらに絵を描くこと。これも線を引く作業のひとつだ。芯ホルダーでラフな下書きをしてからボールペンで線を引いていく。消すことのできないボールペンでの線びきはスリルがあって面白い。しつこくなり過ぎないように、それでも要点は抑えるように線を絞っていくのがとても面白い。

自分の趣味は何かと言われたときに私は大抵本を読むこととか音楽を聞くことと答えるが、稀に文章を書くことと答えることもある。文章を書くことは自分の状態を客観視するのに役に立つし、自分の書いた文章を再読して不要な部分を削り、必要な部分を加えるといった編集が楽しい。無駄のない、パズルの最後のピースがハマるような文章を書きたいといつも思っている。この文章もおそらく書ききった後に2回は書き直してからブログにアップすることになるだろう。書いた文章の中でも特に気持ちの良いものはnoteにも転載するようにしている。これが良いプレッシャーになって文章を書くモチベーションになっている。実際にはラップトップに向かって文章を打ち込むことが多くなってきているが、良い文章は紙ベースから生まれることが多い。フリーハンドで引く線には何らかの意志がこもるのかもしれない。

文章は言葉をつなげ自分の考えを表現する一種の遊具だと思っている。ひとつの言葉につながる言葉はある程度限定されはするものの、人によって違う。だからこそひとりひとり違う考えを持てる。たとえば「花」という言葉に対してあなたが連想する言葉はなんだろう。「チューリップ」のような花の名前かもしれないし、「花弁」といったパーツかもしれない。もしかしたら「植物」という分類を思いつく人もいるだろう。私は「火」や「炎」が連想される。なぜかと問われると答えるのが難しいのだが、花の咲く儚さや猛々しさがそうさせているのかもしれない。嬉しいことに私は文章を褒められることが多いのだが、もしかしたら一般とはちょっと違う連想のパターンを持っているのが原因なのかもしれない。私は躁状態による飛び飛びの言葉のつながりを結構気に入っているのだろう。

文章を書くことは象形文字から考えれば絵を描くことと近しいものではあるのだが、今は絵を描くスキルと文章を書くスキルは別物だと考えられる。小説家だからといって絵を描くことがうまいとは限らない。逆もそうだ。当然例外はいるが、両方のスキルを持っている人は少数派だろう。私は最近になってまた絵を描くことを始めた。またというのは以前はよく描いていたからだ。小学校から中学校の間、選挙とか薬物乱用防止のポスターをよく描いた。祖父母が美大に行っていたのと、母もイラストレーターだったのもあってすごい重圧をかけられて必死になって描いたのを覚えている。結果として賞をいくつももらったのは良い思い出だ。

ポスターはメッセージありきの絵だ。選挙に行きましょーとか、大麻はやめましょーとか伝えるべきメッセージが予め決まっている。後はそのメッセージにつながるように頭の中で組み合わせてそれを絵として表現すればいい。例えば歌舞伎の見得を切る仕草が薬物に待ったをかける動作に似てるなとかそういうものだ。時間さえかければ誰でも良いものは描けるとおもう。私は夏休みのほとんどを絵を描くのに使って宿題は最後の1日でやるか、すっぽかしていた。やはり家族からのプレッシャーがあったからだろう。

そんな私は今、自由に絵を描きたいなと思っている。Vtuberになりたくてそのためのイラストを書きたいと言うのもあるけれど、なんと言っても文章を組み立てるのと同じ感覚で絵を描けたらそんなに楽しいことってないと思うからだ。目にしたものをすばやく素描する。これはカメラで記録に残すよりも何が印象的だったかがわかりやすい。描きたいものを描く。もしかしたら文章では拾いきれなかった物が絵の中に収められるかもしれない。そんなわけで絵を描くスキルを学ぼうと思うのだ。私の場合ポスターを描くのはいわばコピペ的作業だった。頭の中のアイデアを整理したら資料を探してできるだけ忠実に四つ切画用紙に落とし込んでいく。しかし、今度私が目指すのは自分の内面を全面に出していくドローイングだ。あふれる何か、それを言葉にもできないときのルートとして絵を確保しておきたい。

文章は書く内容<コンテンツ>が充実していないとろくな文章にならない。文章に落とし込むまでに失速して散り散りになってしまうからだ。絵はどうなのだろう。試してみないとわからない。趣味でかく文章と絵はどこまで上手くなれるのか。文章に関しては良い文章に触れていろいろ試していくしかない。絵も描いてみないと始まらないだろう。全ては1本の線から。

もりきよ、お絵かき始めます。これは単に絵を描くという宣言ではなく、内面を充実させ表現するという宣言。毎日何かを学び成長したいものですね。

もりきよのお金周りの話

もりきよです。息をつく暇のない転がるような生活をしています。今月の頭の方にあったミネルバ大学の不合格通知からある程度時間が経ちました。不合格なのは残念でしたが今となっては実力不足だったのだと冷静にことを見ることができます。受験の書類集めが結構大変で、終わった後はハイになっていました。軽い躁転のパターンです。私によくある気分が上がるきっかけです。そのテンションでCDを大量に買ったり本を買ったりしましたが、月末でお金も厳しくなってきて気分が今度は落ち込み始めました。呼吸もこころなしか上手くできない。自律神経が少しおかしくなっているのかもしれません。

今は薬をうっかり飲み忘れて2日目です。活動的ではあるけど、頭をよぎる言葉のつながりはとぎれとぎれになって、話すことが上手くまとまらない。そんな感じ。普段から話す内容はあっちこっち飛び回る私ですけど、薬がないとその傾向はさらにつよくなります。.......一体どうやって薬を飲む前は話をまとめていたのでしょう。今となっては検討も付きません。今日の記事もまとまりがなくなることが予想されます。きちんと薬には向き合わないといけませんね。今週からきちんとやろうと思います。頑張って毎日飲むぞー。特に寝る前の薬を抜かないように気をつけたいところです。楽しい夢と落ち着きのある現実で天秤にかけたときに前者を取りがちなんですよね。自分の創造性に受動的に踊らされながら、意識のできるところでストーリーを改変できる都合の良い夢にたぶらかされて私は少しずつ壊されているのかもしれません。

さて、お金の話です。私は普段あまりお金の話をしません。なんでってそんなに話すことがないからです。それから、今までお金の問題に向き合うことがなかったからです。知らないことは全然話せないのって当たり前ですよね。私の獲得した奨学金が母に勝手に20万円使われていたのには憤慨しましたが、養ってくれていたお礼だと思えば憎めないのですよね。いや、腹は立ちます。立ってきました。返してほしいです。TOEFLにぶち込みます。IELTSでもいいですけど。英語なら勉強するモチベーションも保ちやすいですし。最近始めた中国語でもいいですね。資格試験があったはず。大辞海読みたい。

私は昨年親の世帯から分離されて一人世帯の世帯主として生活しています。せいかつほごをじゅきゅうしています。グループホームに入っています。今は母校で働きながら来年度入学の受験を考えています。

生活保護を受けているので当然お金はほとんど貯められないです。働いていなければ、毎月家賃<GHなので東京都からも援助が出る>+8万円くらいの水準で給付されます。しかし、生活保護を受ける際に生保から抜けるための努力をすることが義務付けられているので私は働いています。そこから得られる収入が月約11万円。当然全額手元に入ることはありません。いくら働いても水準の中に収まるように調整され、過剰分があれば回収されます。働けど働けど貧乏。厳密に言えば、1.5万円までは全額手元に残る仕組みです。その後は4000円毎に400円手元に残ります。でも、未成年控除の1万円が外れてしまったのでトータルではマイナスでしかない。自炊もしていないからきつきつです。来月炊飯器買おうかなぁ。

正直支援を受けてばかりの自分が嫌になります。将来還元できるのか不安になるほど社会に借りを作ってしまっている気がするのです。ただでさえ高校で60万円くらい貸与型奨学金を借りているのに。でも、大切なことは割り切ることだと昨年の私が言っていました。25までは使えるものは何でも使っていく精神で生きていこうと思います。障害者年金にも申し込んじゃうzo! 来年は給付型奨学金と障害者年金で生活が回ればいいなぁと思う次第であります。大学で特待生になれればサイコーですね。そのために大学のレベルをどこまで下げるかがまた鍵になりそうですが。その話はまた今度にしましょう。これから考えなければなりません。正直受験科目は少ないほど良いです。はは。武将はどんな大学にしても入ったら大学生やってそうだと言ってくれましたが、正直良くわからないのです。

最近ようやっと障害者年金の申込書類を作成し始めました。うまくすれば毎月お金が入ります。これはありがたい。

受験校にニューヨーク大学アブダビ校を入れるか悩ましいところです。オイルマネーによる奨学金。いいですね。素敵です。

........やっぱりそんなに話すことなかったですね。混乱してますね。ニートが話すことに誰が興味を持つかわかりませんがもっと聞きたいみたいな感想をもらったら、また付け加えて書こうと思います。薬の入っていないときに文章書くと、質が下がる。コンテンツも貧弱なので、今回は勘弁してください。寝ます。くするのを忘れずに。

逃走と歪んだ合理化、迷子迷子

今回の文章はほんとに迷子です。何かしらのメッセージを感じられたらそれはとても嬉しいことです。教えて下さい。こういう文章を書き続けてもいいのかを。

私は追い込まれると逃避行動に移りやすい性格らしいです。これは結構前から自覚していたけれど、面と向かって言われたのはだいたい5年くらい前、メンサン先生から「君は逃避傾向が強い」と言われたことが初めてでした。その現実を突きつけられる前からも自分と付き合っていく中でその傾向は強く感じていました。どこか遠くに逃げてしまいたいという思いが定期的に溢れてくるのが止まらないのです。

そして逃避の先に何があるかというと、しばらく逃げる必要のない環境なんですよね。それは多くの場合突拍子もないチャレンジという形で私の人生の一部になります。高2のときに出席日数が足りないところから留年してたくさんのイベントに参加したことも、TOEFLを受けて海外大学受験を目指して書類の作成を始めたのも現実の逃避が始まりでした。逃げた後は元いた環境のことなんて考えたくもないですから自由に挑戦できる気になってるんですよね。能力の有無は関係なく。最近もミネルバ大学受験という少し挑戦めいたものをして見事に玉砕したわけです。

久しぶりの玉砕でした。ええと、セルフ・ハンディキャッピングはやりすぎていて披露し続けるのが恥ずかしいのですが。正直受からないだろうなという気はしていました。試験中にGramarry使ったし、数学5分の4しか解けなかったし、実績のevidenceにかからない電話番号を記入しちゃったし<日本の国際番号81をつけるのを忘れていた>。セルフ・ハンディキャッピングと合理化は私を物理的に回避のできない惨劇から精神だけ救ってくれます。してもろくなことはなくて、現実を見れない人間が一層頑固になっていくだけなのですけど。惨めですね。それでもまあ、それも含めて実力です。久方ぶりに気持ちの良い負け方ができたなと思っています。

さて、何ヶ月もブログを放置していた私がなんでまた記事を書いているのか、気になりませんか?気になりませんか。そうですか。引き伸ばす理由はないので白状すると、実はまた自分と付き合うのが面倒で逃げているんです。やらなきゃいけないことは結構あります。毎日の仕事に通院、部屋の掃除や洗濯、障害者年金の申込み書類の作成などなど。社会的に自立しつつある私ですが生活力は皆無です。ずっとホテル暮らしして掃除とかも任せていたい。やりたいこと、やらなきゃいけないことの間のできるけどしんどいやつとか、将来のためにやっといたほうがいいことってありますよね。給付型奨学金への申込みや貯金、IELTSの申込みなんかがそれです。来年度の国内or海外大学受験のために将来のためにやらなきゃいけないことも結構あるんです。でもやっぱり頑張り続けるのは疲れちゃう。モチベーションも上がらない。それで逃げるわけです。

将来って響きが嫌ですよね。未来が関係する出来事で私が嬉しかったことなんて殆ど無いです。だいたいプレッシャーに潰されてしまうのですから。大学受験がいい例ですよね。19の誕生日前後の措置入院がいい例ですよね。毎日をただ通過するだけで、ただある程度の期間存在していただけで、自分の社会的位置づけが変化していくなんて恐ろしくてしょうがない。新成人オリエンテーションなんてなかっったですよね?みんなにはあったのでしょうか。私がハブられていただけなんでしょうか。怖い怖い。

私が文章を書くのはどこか才能があってほしいと願って、自分の感性で完成されていく文章を眺めるのが好きだからなんですよね。文章を打つときの私は少し頭の後ろの方に後退して、文章を勝手に生み出してくれる手指をぼんやりと眺めているんです。手に打たせているのをたまに「後ろにいる私」が修正する。ついーとは大体私が書いてますけど、こういった長い文章は私と指との対話の記録でもあるんです。手に宿る意識なんて自動化されたポンコツ知能しか持たないから駄文が増えていくわけです。普段使わない敬体を今使っているのも今日の手の気分によります。解離性障害かもねと武将には言われています。このブログのこと話したことないのに。

きっと私は受験も終わって次のステップに移る前に少しでも楽しいことをしようと思って、現実から逃げているんでしょうね。最近の行動にそれが見て取れます。HelloTalkという言語交換するアプリで色んな人とチャットしたり、Duolingoで中国語したり、本を買って読んだり、絵を描く練習を思いつきで始めてみたり。どこからこのエネルギーが来るのかはわかりませんが疲れるまではやってみようと思うのです。気分の上がり下がり、障害と呼ばれるレベルでもこれは私の一部なのですから。薬は最近毎週増えています。それに負けじと気分も上がっています。さあ、崖の上から飛んでみよーなんて気分になるのも時間の問題でしょう。そうなる前に正気に戻るといいのですが、最後に正気だった瞬間を私は覚えていません。

今日読んだ本にロジカルに物事を伝えるためにはメッセージのやり取り、コミュニケーションが必要なことが書いてありました。メッセージは課題<テーマ>、答え、期待される反応が揃ってこそ伝わりやすいものになるのだそうです。私のこの文章は何者なんでしょうか。誰に書いているのかすらわからないし、段落同士の関係性も河原の石積みのように危なげで到底論理的ではないでしょう。なんだか不思議な気分です。今日は指がよく喋る。こうして自分の内面を理解していろいろな人にそれを公開して、いつか良き理解者ができるのを非常に間接的ながら望んでいるのかもしれません。

自分を愛せるようになるには時間がかかりそうだから、他人に愛をささやくことから始めましょうかね。そうすればちぐはぐながらも理解者<仮>ができるかもしれない。本当に愛することができるなら良いのですが、愛というものを取り扱うのには私はきっと臆病です。何たる裏切り。これが私を寂しくするんです。

私ってば中途半端人間、脱皮できるか

私は中途半端人間。いろんなことに手を出すも、ある程度のレベルに至る前に飽きてやめてしまう。結果としてやっていない人よりはできるけど、ちゃんとやっている人と比較するととても見劣りする人間が完成する。飽き性。躁鬱人間。器用貧乏。色々な言い方があるけれど「ひとつのことに夢中になるわけでもなく、かといって広い分野に精通するわけでもない中途半端な人間」であることには間違いはない。

一般的にルービックキューブと言われるパズル。私はそれを30秒もあれば解くことができる。平均的な人と比べるとそれは早いように思われるかもしれない。しかし、競技としてパズルを解くスピードキューバーは大抵1ヶ月も練習すれば20秒は切ってくる。私のそれは経験者とも未経験者とも言えない初級者レベルだ。お勉強。学校でスコア化されるその競技では偏差値60ちょいの学校で2位を取るくらいの成績を収めた。しかし、受験勉強には向いていなかった、というか色々おかしくなって無かったから大学には入らずにグループホーム生活保護を受けてなんとも微妙な生活を送っている。結局上には上がいるし、大学進学のための勉強という意味では私は落伍者だったのだろう。

ひとつのことに夢中になったことはないのかとたまに問われる。ほとんどない。ではその夢中になったことは何かと問われると「ゲームをインストールしたはじめの24時間」など超一過性のマイブーム的なものにとどまってしまう。生産性などない。ほとんど受動的なものだ。

私が新しいものに触れるときの流れはこうだ。躁状態や睡眠不足で気分が変に上がっているときになにか面白そうなものを知覚する。それはついったーから得られる場合もあるし、なにか頭の中で考えて遊んでいたらやりたくなってきたという場合もある。それを躁な私はブレーキをかけずにやり始める。新しい分野だからはじめは楽しい。夢中になる。しかしある程度やっていると最高にハイな状態から下がってきて疲れを感じ始める。休憩といった形で一度そのコンテンツから離れる。そして長い間戻らない。その間にはじめに身に付けたスキルはパーになる。大体こんな有様だ。

上のような経過をたどるものはまだマシと言える。大体の場合は先人の凄さに圧倒されて、比較してしまい、はじめからやる気を失ってしまう。要は概要だけ調べて手を出さないのだ。私は生来競争好きな性格らしい。負けるのが嫌いなのだと思う。オリジナルでは勝ち負けがないものであっても、スコアかなんかで比較できてしまうと怖気づいていしまい、手を出せない。

自分の限界を知るのが怖いというか、競って負けるのが嫌なんだと思う。そんな面倒な性格が狭く浅い知識・経験を持つ私を生んでしまった。このままが嫌ならそろそろ舵を切るときだ。

今からなにか、まだ知らない対象のマニアになるのにはどうしたらいいのか。それも意図的にハマるのではなくて、本当に没頭できるレベルでハマるには......。正攻法としてはたくさんのものに触れて、より深く体験することだと思う。それと同時に「好きだ」と言えるような感性・センスを育み、好きなものを増やしていくべきだろう。また、素直に人の通った道をフォローするのが近道だとも思う。

ただ、結局は私はどのような人間になりたいのかという問に答えられるようにするのが大切なのだと思う。趣味を作らなくてはならないというなんともピントのぼやけた目標<?>ではなく、なりたい自分像から逆算して趣味等を獲得するべきなのではないか。そうしないと結局得るのはガラクタのような趣味のコレクションで、なんの足しにもなりはしない。なりたい自分像にはまるピースを探すように趣味探しができたらと思う。

それでは、なりたい自分像とは.......?正直自分でもわからない。考えてみると思春期にアイデンティティを獲得しそこねたような感覚になることがある。みんなは「好きなこと」や「将来設計」をしっかりと持っていて、それらを組み合わせたモチベーションで大学を選んだり、アイデンティティの確立ができているように見えるのだ。その中で私はただ周りに流されていただけだった。私の話すネタは過去の経験の話だったり、ニュースの受け売りだったり。そこに私はいなくて、空気のような間を埋める話題提供機としての自分がいるだけだった。

結果としてアイデンティティが迷子のイタいハタチができているのだが、捉え方によっては案外悪くないかもしれない。今から情熱を持ったものをアイデンティティにできるから。今から意図的に無理なくキャラクターを組み直せば、まだなれるものの幅は広いはずだ。過去に囚われずに未来に向かって進め。

絶賛迷子中のアイデンティティを考える上でなんとなく「おもろい」という感覚は大事にしていきたいと思っている。何かを見たときに「おもろい」と思える感性を育てたいし、自分自身が「おもろい」と思ってもらえるような人間に何となくなりたいと思っている。そのためには自分の知見を広げていろいろなものを関連付けて考える能力が必要だし、ユーモアも必要だ。とりあえずしばらくはおもろい人を目指して生活してみようかなと思う。

話がこじれた。アウトラインを始めに書かないとこうなる。次からはきちんとまとまった文章を書くように気をつけるから許してね。

Vtuberに興味が出てきた。おもろそうだ。やってみようかな。

久しぶり。リハビリ的文章。n回目

今週のお題「大人になったなと感じるとき」これにも関係あるかもしれない。お酒を飲んだ。

こんなタイトルをつけた文章が並んでばかりだ、私のブログは。毎日更新する週間が付けばいいのだがなかなかうまくいかない。継続って難しい。#もりきよ日記についてもそうだ。ブログの縮小版にしようとしてスマホの画面1枚分の日記を始めたのはいいものの、結局更新できないでいる。文字数が約1000文字だから、ブログよりもずっと更新しやすい<ブログは普通に書いていると3000字ほどになる>。文字数制限がすぐに訪れるために、ゴリゴリのダイエットをした文章を書くことになる。謎解きをしたような少しの爽快感。案外楽しい。

いま私はブログ更新のためにTyporaというアプリに向かって文章を打ち込んでいる。感じるのは文章を無限に打っていいという自由と、その可能性。それから支えを失ったかのようなちょっとした不安だ。普段文章を書くときには内容をある程度練って書く。今は思ったことを思ったままに書いているからだろうか、とっちらかった文章を書いているのだなと自分でもわかる。それをうまくコントロールしたいとは思うのだが、頭がろくに働かない。紙に書きたいことを書き出して一度整理するのが良いと知っていても、それを行動に移すのは煩わしいというか。気だるくてできない。やりたくない。そんな感じ。

こんな汚い文章を人様に見せるのは正直気がひけるのだが、これも私の一部だと思えばいいのかなと思う。きれいでスパッとした文章を書く私もいればこんがらがった醜い文章を書く私もいるのだ。ついったで他己紹介してもらったときに「思考のはたらきが澄んでいたり濁っていたり、大変そう」と言われたことがある。今の私は濁っているのだろう。頭から、感覚からスラリとした文章を引き抜かんとすれども、長く縮れたラーメンのような文章が生まれゆく。頑張って無駄を省こうとする頭の働きは外野にいて、結局文章の校正をできずにいる。そんな感じ。

こんな感覚になるのも珍しい。数日前に酒の味を知ったからなのか、体がアルコホールを求めているのかなって思う。軽く首を絞めたかのように頭に血がのぼる感覚が忘れられない。ふと入院中に出会った女の子の影を見た。彼女は病んでる感じの女の子だった。入院中は結構長い時間を彼女と過ごしたものだった。彼女は薬をそれはそれは楽しそうに飲んだ。とても印象に残っている。薬を飲むとなぜか目の下にクマができるからひと目で薬を飲んでいるか否かがわかる。薬を飲んだあとのふわふわとした話し方で彼女は「もりきよ~、まっすぐあるけない~、たのし~」なんて言うもんだから面白い。酒を飲んだあとの足元のおぼつかない感じが彼女のイメージに重なったのだと思う。

さて、お酒だ。ウィキペディアで検索したら抗不安薬のところにエタノールと出てきた。確かにあのふあふあ感は癖になるし、一時的には不安も解消されるだろう。2日しか飲んでいないのに、もう飲みたい。お医者さんと「人付き合いの一杯なら飲んでいい。二杯目以降は烏龍茶」という約束を交わしてしまった。うう、お酒飲みたい。20歳になってまだ3日、酒を飲み始めて3日でこれである。恐るべきお酒の魔力。友人らしき知人に「もりきよはアル中になる素質あるよ」と言われたけれど、まさにそのとおり。本来ならお酒を飲むつもりさえなかったのだ。武将には「薬とお酒の飲み合わせは最悪」とまで言われているし、誕生日も買うだけで満足するつもりだった。「認知機能が最も良い20歳の頃に酒を飲むなんて馬鹿だよね」なんて言っていたのは果たして私だったのか。もうお酒のことばっかりを考えている私とはもう違う次元に住んでいる気がしてならない。

酒、酒、酒。旨い酒というやつも飲んでみたいし、いろいろな酒を飲んでみたいと思う。人付き合いの中でしか飲めないなら、酒好きのトモダチを作るしか無いなとも。酒が先行して友達付き合いはその手段みたいになっているところももう、人としてどうなの?という感じである。もっと言ってしまえば、「ツイキャスは人付き合いに入りますか?」なんてついったでアンケートを取っている時点でアウトである。おちつきなさい、私。あぁ、お酒飲みたい。

なんでここまでお酒が飲みたいのだろう。おとなになりたいのかもしれない。小さい頃から見てきた大人なんていなくて、精神年齢幼いままでここまで育ってきてしまった自分がいる。諦めることはきらいだし、何かに迎合するのも好きではない。それでもお酒のせいにすれば、馬鹿になれる。酒に飲まれてしまえば、一時的に自分から離れられる。もともと、離人感は強い方だったけど、お酒はそのサポートもしてくれるから。飲む。飲まれてしまう。吐血してでも飲む。なんだかちょっと悲しいね。なにかに諦めたり、習慣に飲み込まれて同じような毎日を過ごすのが大人なら、お酒はきっと私を大人にしてくれるから。

私が自信を持って友達って言える人って実は「少ない」んじゃなくて「いない」。ネッ友は知人よりちょっと仲がいいくらいの関係。自分から友達っていうのは気が引けるし、手のひら返されたときのことを考えてしまうと自分から拒絶してしまう。だから皆に無償の愛は与えるけど、特定の人に対して好意をもつことはあるけど、自分で決めた一線は越えられない。人を好きになるのにも臆病。弱虫なんだなと最近気がついた。そんな私を見守ってくれていた友達、希死念慮ちゃん。ずっと一緒だったし、辛いときには優しく介抱してくれた。そこに新しくアルコホールちゃん。おさけちゃんでもいいか。仲良くしてくれそうだ。お薬は乱用しないように約束させられたから、プラトニックな関係なんだよね。このみっつのお友達、パートナーとこれからの人生は歩んでいくんだね。たばこは.......どうなんだろうね。