アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

逃走と歪んだ合理化、迷子迷子

今回の文章はほんとに迷子です。何かしらのメッセージを感じられたらそれはとても嬉しいことです。教えて下さい。こういう文章を書き続けてもいいのかを。

私は追い込まれると逃避行動に移りやすい性格らしいです。これは結構前から自覚していたけれど、面と向かって言われたのはだいたい5年くらい前、メンサン先生から「君は逃避傾向が強い」と言われたことが初めてでした。その現実を突きつけられる前からも自分と付き合っていく中でその傾向は強く感じていました。どこか遠くに逃げてしまいたいという思いが定期的に溢れてくるのが止まらないのです。

そして逃避の先に何があるかというと、しばらく逃げる必要のない環境なんですよね。それは多くの場合突拍子もないチャレンジという形で私の人生の一部になります。高2のときに出席日数が足りないところから留年してたくさんのイベントに参加したことも、TOEFLを受けて海外大学受験を目指して書類の作成を始めたのも現実の逃避が始まりでした。逃げた後は元いた環境のことなんて考えたくもないですから自由に挑戦できる気になってるんですよね。能力の有無は関係なく。最近もミネルバ大学受験という少し挑戦めいたものをして見事に玉砕したわけです。

久しぶりの玉砕でした。ええと、セルフ・ハンディキャッピングはやりすぎていて披露し続けるのが恥ずかしいのですが。正直受からないだろうなという気はしていました。試験中にGramarry使ったし、数学5分の4しか解けなかったし、実績のevidenceにかからない電話番号を記入しちゃったし<日本の国際番号81をつけるのを忘れていた>。セルフ・ハンディキャッピングと合理化は私を物理的に回避のできない惨劇から精神だけ救ってくれます。してもろくなことはなくて、現実を見れない人間が一層頑固になっていくだけなのですけど。惨めですね。それでもまあ、それも含めて実力です。久方ぶりに気持ちの良い負け方ができたなと思っています。

さて、何ヶ月もブログを放置していた私がなんでまた記事を書いているのか、気になりませんか?気になりませんか。そうですか。引き伸ばす理由はないので白状すると、実はまた自分と付き合うのが面倒で逃げているんです。やらなきゃいけないことは結構あります。毎日の仕事に通院、部屋の掃除や洗濯、障害者年金の申込み書類の作成などなど。社会的に自立しつつある私ですが生活力は皆無です。ずっとホテル暮らしして掃除とかも任せていたい。やりたいこと、やらなきゃいけないことの間のできるけどしんどいやつとか、将来のためにやっといたほうがいいことってありますよね。給付型奨学金への申込みや貯金、IELTSの申込みなんかがそれです。来年度の国内or海外大学受験のために将来のためにやらなきゃいけないことも結構あるんです。でもやっぱり頑張り続けるのは疲れちゃう。モチベーションも上がらない。それで逃げるわけです。

将来って響きが嫌ですよね。未来が関係する出来事で私が嬉しかったことなんて殆ど無いです。だいたいプレッシャーに潰されてしまうのですから。大学受験がいい例ですよね。19の誕生日前後の措置入院がいい例ですよね。毎日をただ通過するだけで、ただある程度の期間存在していただけで、自分の社会的位置づけが変化していくなんて恐ろしくてしょうがない。新成人オリエンテーションなんてなかっったですよね?みんなにはあったのでしょうか。私がハブられていただけなんでしょうか。怖い怖い。

私が文章を書くのはどこか才能があってほしいと願って、自分の感性で完成されていく文章を眺めるのが好きだからなんですよね。文章を打つときの私は少し頭の後ろの方に後退して、文章を勝手に生み出してくれる手指をぼんやりと眺めているんです。手に打たせているのをたまに「後ろにいる私」が修正する。ついーとは大体私が書いてますけど、こういった長い文章は私と指との対話の記録でもあるんです。手に宿る意識なんて自動化されたポンコツ知能しか持たないから駄文が増えていくわけです。普段使わない敬体を今使っているのも今日の手の気分によります。解離性障害かもねと武将には言われています。このブログのこと話したことないのに。

きっと私は受験も終わって次のステップに移る前に少しでも楽しいことをしようと思って、現実から逃げているんでしょうね。最近の行動にそれが見て取れます。HelloTalkという言語交換するアプリで色んな人とチャットしたり、Duolingoで中国語したり、本を買って読んだり、絵を描く練習を思いつきで始めてみたり。どこからこのエネルギーが来るのかはわかりませんが疲れるまではやってみようと思うのです。気分の上がり下がり、障害と呼ばれるレベルでもこれは私の一部なのですから。薬は最近毎週増えています。それに負けじと気分も上がっています。さあ、崖の上から飛んでみよーなんて気分になるのも時間の問題でしょう。そうなる前に正気に戻るといいのですが、最後に正気だった瞬間を私は覚えていません。

今日読んだ本にロジカルに物事を伝えるためにはメッセージのやり取り、コミュニケーションが必要なことが書いてありました。メッセージは課題<テーマ>、答え、期待される反応が揃ってこそ伝わりやすいものになるのだそうです。私のこの文章は何者なんでしょうか。誰に書いているのかすらわからないし、段落同士の関係性も河原の石積みのように危なげで到底論理的ではないでしょう。なんだか不思議な気分です。今日は指がよく喋る。こうして自分の内面を理解していろいろな人にそれを公開して、いつか良き理解者ができるのを非常に間接的ながら望んでいるのかもしれません。

自分を愛せるようになるには時間がかかりそうだから、他人に愛をささやくことから始めましょうかね。そうすればちぐはぐながらも理解者<仮>ができるかもしれない。本当に愛することができるなら良いのですが、愛というものを取り扱うのには私はきっと臆病です。何たる裏切り。これが私を寂しくするんです。