アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

人間の唯一性

人間を特別視する理由はない

私たちは自分たちを特別視しすぎではないか。「私は正しい」から始まって、「私の国は偉大だ」<あまり聞かないが>や「人間が動物の中で一番すごい」など。本当にそうだろうか。私はそうは思わない。どれも自分の作った定規で測っているだけではないか。

人間が一番すごいと考える理由は何か。言語を操れる。火を使える。直立二足歩行ができる。世界中に住んでいる。いろいろ考えられる理由はあるだろうが、私はこれを否定したい。言語?昆虫の用いるフェロモンとどう区別されるのか。火?なぜ火だけが特別なのか。直立二足歩行?確かにこれをできるのは人間だけだ。しかし、アルソミトラ・マクロカルパが「僕たちは種をグライダーみたいに飛ばせるんだ」なんて言ってきたところで偉大さの証明にはならないだろう。ただの種の特徴。それだけ。世界中にすんでいる。そんなら細菌類も世界中にいるわな。こうした要素を併せ持っているからすごい?そんなの人間至上主義じゃないか。ヒューマニズム。なぜその要素を選んだ?他の動植物にも適応してあげなよ。

上では「人間が動物の中で一番すごい」というものを否定しているが、他のことについても同様に反駁できるだろう。「結局自分で作ったモノサシで自分を大きく計測しているだけ」。私はほとんどのものについてそう考える。先日、友人らと麻雀を打つ機会があった。そこでわかったのは他者を理解する難しさだった。人間が世界でもっとも優れていると考えるP君。彼に対して反論する私とH君。「人間はウサギの見る世界をそのまま見ることができるか」と私かH君のどちらかがPに質問した。できると彼は言う。

人間の見る世界とウサギ<任意の動物・植物>の見る世界

Pの意見を要約するとこうだ<あくまで私の要約であって、彼の意見とは異なるかもしれない。あしからず>。人間は機械等で感覚を拡張しており、知的な生命体である。ものごとを原子や素粒子の単位から見る方法を体系的にまとめられている。したがって、原子や素粒子で構成されているウサギの世界の世界は観測されうるし、見ることができるといえる。

それに対して私とHはこう反論した。原子・素粒子という見方そのものが人間によって規定された、限定的なものである。人間が機械で感覚を拡張するとき、機械も認識できないものや人間の感覚<一般的には五覚>に落とし込めないものは観測し得ない。ウサギらが霊的な<文脈上人間が完璧に近くできないものを指す>物で世界を捉えていたり、それらを使って会話している可能性は否定できない。なせPはそれを否定するのか。何をもって人間が知的であるとするのか。上位の存在であれば下位の存在のすべてを理解できるとでも言うのか。何を持って上位とするのか。

結局、その日に結論は出なかった。春には二人とも引っ越すらしいから、議論も続けられないかもしれない。私なりの結論をここに書いておく。人間がウサギの世界を見ることは不可能。人間が「ウサギの世界を完璧に理解した」というときには何らかの翻訳作業が行われており、それはウサギの世界すべてを表現できていない

何が言いたいのか

結局何が言いたいのか。書いているうちにわからなくなってしまった。いろんな考え方があるといいたかったのかもしれないし、記録を残しておきたかっただけかもしれない。ただ、あらゆる可能性を考慮すれば私たちは大して特別な存在ではないとはいっておきたい。変なバイアスを自分自身にかけて相手を測ってしまってはいないだろうか。少なくとも私は気をつけたいと思う。ちなみに、私は「多様性」という言葉があまり好きでない。当たり前だからだ。「バナナと人間のDNAは60%が共通」。よく聞く話だ。残りの40%でここまでの違いを作れているのだから面白い<これも人間の定規に乗っかった話ではあるが>。私たち人の間でも同じ色を同じように見れている保証などない。妥協して、惰性で生活しているに過ぎない。私は思う。それぞれの持つ世界観でそれぞれラクに生きれたらな、と。変わった考え方を理解する必要はない。そもそも完璧な理解など様々な決まりごとという土台抜きにはありえない。数学はそれが成り立つ<人間の感覚上の>希有な例だろう。実生活ではあくまで自分の世界を整理し、理解する。これに徹すればよいのではないか。相手の言うことなんて、脳みそが作り上げたVRかもしれない。と無責任なことを言って、この記事を終わろうと思う。それではまた。別のサカナと会いましょう。

このサカナ<思想>のオーナー<もりきよ>のついった