アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

生活リズムを取り戻さねば

今日は短めの文章で。もう日付が変わちゃったからね。早く眠る習慣、これを早く身につけたいものだなと思う。短い文章を書くのは長い文章を書くことより難しいと最近は思っている。どうしたら簡潔で読みやすい文章を書けるのかしら。訓練、そうよね。

さて、生活リズムだ。私にとって生活リズムの乱れは前々から重要なテーマになっている。歴史をたどれば中学生の時に起立性調節障害自律神経失調症になった頃から生活リズムが乱れてきたような気がする。最近では社会との繋がりが薄れてきたのもあって、生活リズムの乱れが即問題になるわけではない。だが、今後社会復帰<もともと属していないものに復帰するという言い方にはやや違和感を覚えるが>するにあたって、生活リズムを整えるのはほぼ必須の能力と言えるだろう。

今の私の生活様式はどんなものかと言うと、午前中に予定がある日は徹夜をして、なにもない日は気まぐれに起きて活動するというものだ。気まぐれに活動と言っても毎日できるわけではない。今日なんかは0時に寝て3度寝、22時起きをした。日中活動と呼べるものは全くしていない。活動できないことが問題と言うよりはそれが癖になって自己肯定感が下がることが問題だと言える。なんにせよ私は生活リズムを形成できていない。サイクルになっていない感が強い。

一般的には睡眠サイクルは安定させたほうがいい。きちんとした生活リズムが作られていないと、個人レベルの時間を社会レベルの時間に適応させるのが難しくなる。いくら一人暮らしと言っても生活は基本的に社会時間で流れている。ゴミ出しは朝にやらなければならないし、多くの店は夜に閉まる。好きなリズムでやろうとしても限度があるということだ。個人の時間を社会の時間にすり合わせることで社会的な生活を送れる。そういうふうになっていると私は理解している。

ハチャメチャな生活を送っている私でも予定を入れることはある。何か買い物の配達時間を指定したりだとかイベントに参加したりなどだ。しかし、1日の睡眠時間が0時間だったり22時だったりする私が最高のパフォーマンスでイベントに参加するのは難しい。明日も夜20時からzoomを使ったオンラインのイベントがある。無事に終えるとよいのだが。最大限学べることを学べたらと思う。なんとかするのだろうが、今はそのビジョンが見えない。

サイクルを作るのに必要なのは夢との遊びを断ることと、朝にやることに義務感をつけることだと思う。私が長時間寝てしまうときはだいたい夢と遊んでいる。ストーリーが面白かったり、覚えやすい場面があったりして興味深い。日常生活では味わえない感覚がそこにはある。それで夢に引っ張られてしまうのだ。現実に帰ってこれなくなりそうで少し怖い。また、朝やることに義務感をつけるというのは通学していた頃はきちんとサイクルが形成されていたことに基づく。朝起きて着替えて外に出ること、それから電車に間に合わせるために少し走ること。これが私の目覚ましに強く関係していたのだと思う。

まずは起きたら布団をたたむこと、着替えること、散歩をすることから始めようか。Duolingoとかのスマホを使っての勉強の時間に充てるのも良いかもしれない。もちろん、本での勉強でもよいと思う。早速明日から実行しよう。その経験に基づいたヒントを使って、確実に起きられるルーティンを作っていけたらと思う。


このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。

私はふつうの人なの?

自分が普通であると宣言していいことってあんまり無い。今まで普通とか考えないで接してくれていた人に疑問を抱かせてむしろ変に思われるとか、受け入れられても「普通」はさして安定感のあるものでもないから得られる恩恵は多くない。

適当に人間を引っ張り出してきて人生を比較する。完全に一致するということはないだろうが大体の傾向は把握できる。レアな経験がどんなものなのかとか、そういうことはわかるだろう。多く見られる出来事やシチュエーション、これが普通なのだと私は思っている。しかしこれは母集団によって大きく変わる基準。寄りかかるにはやはり頼りない。

自分と同じように考える人は多いという錯覚は広く知られている。認知バイアスのひとつだ。どうしても「自分は普通だ」と言ってしまいそうになる。これはわかる。私ももしかしたらこのバイアスの被害者なのかもしれない。私のついったのBioの1文目は「ふつうの人」だ。これはしばらく変えるつもりはない。私の「変」は経験に集約されていて、判断などは普通だと思っているからだ。

私の変な経験を少し紹介しよう。全部は書き出すことはできない。想起するのに苦労するからだ。これまでも私の過去については何度か話したことがあると思う。それも、もう一度確認しておこうと思う。時系列順がいいかな。では行こう。犯罪者の父のもと生まれた<父は今も塀の向こう側にいる>。母からの虐待を通報され児童養護施設に入れられた。そして5年ほど経ったときに何故かもとの家に戻ることができた。施設内では知能テストなどで高いスコアを出した人らが集められる「三つ葉」という共同生活型のGHみたいな所に移されていた。幼少期から知能は低くなかったようだ。今でもその傾向は残っているらしい。ちなみに最初に記憶は2歳位のもの。その後母が再婚、妹ができる。妹の父親はDVが激しかった。母の虐待癖は特に治らず。家庭環境は良くなかった。妹が生まれてから1年やそこらで離婚。小6の時点で引っ越し回数が8回とかだった。ときには地域性に馴染めずいじめられていたこともあったらしい。あったらしいというのは後から言われて気がついたということで、当時はそんなに気にしていなかったからこう書かせてもらった。中学高校と良い成績で卒業する。夏休みのポスターとかでいろいろな賞をとったり。ひとつのことに打ち込むと言うよりは色々なことをやってみるという感じだった。中学生でも生徒会活動をしていたが高校では本格的にやる。会長も務めた。高校生が参加できるイベントに興味を持ち始めて、高2から行き始める。高校生から23人位しか選ばれないベトナム研修に参加したり、地域振興のイベントで賞をもらったり、京大で講義を受けたりした。しかし様々なイベントで充実する反面メンタルのケアはできていなかった。検査入院と称して2週間入院。......の予定が3ヶ月に長引いて出席日数不足で留年した。2度目の高校2年生の夏にHLABのサマースクールに参加。金銭面の問題から国内大の受験を諦めて奨学金を利用した米国大入学を考え始めたのもこの頃。今思うと少し遅かった。結局間に合わなくて今の私がいる。奨学金の団体に出す書類は自己分析させるものが多かった。いくつも申し込んでいたが落選、最後の方は投げやりになってしまっていた。そんなこんなで自殺念慮。いろいろな要因はあったけれどここであえて説明するということはしない。ノリを飲んだのもこの時期か。友人にメッセージを送って<こういうところのツメが甘い>いざ決行だと思ったら<感電装置のタイマーをかけて寝ていた>、家に警察官。措置入院することになった。入院・転院をして、家庭環境の悪さ、経済的困窮、私の治療の目線から言って、世帯を分けて独立したほうが良いとの話になった。それでグループホームを探すことになる。今、この文章はグループホームで作っている。国の制度、地域のサービスのおかげで今の自分があるのだ。感謝したい。

まあ、稀有な体験をしてきたものだなと思う。ひとりひとり違う人生を歩んでいると考えても少しいろいろな要素を詰め込み過ぎではないかと思う。ただ、変な経験をしてきただけでその人が変な人だと考えるのは早計だと思う。その人が変かどうかというのは決断であったり考え方によると思うからだ。

私の経験の場合、自ら選べる場面は殆どなかった。ただ流されるままに生活していたらこれだ。米国大を目指すというのも、現在のように給付型奨学金の法案は通ってなかったから、最善のように思われる。何が言いたいかと言うと、私の変さは経験によるレアリティの高さであって、思考だったり能力が特別なものではないということだ。私を見た看護師の方に「<私が>まともすぎて怖い。普通ならもっとひねくれた性格になっていてもおかしくない」と言った人がいた。私の言いたいことを一言に集約してくれたと言える。私は入力がおかしいだけで、根は普通なのだ。根っこは普通、これが私。

ただ、この事情は最近は変わりつつある。私は世帯主になって、選択をしなければならない場面が増えてきた。何でも環境のせいにできるわけでは無い。最近では双極性障害という病気のせいにできるようになったが、これも万能ではない。皆、同じ選択をするよね?みたいな感覚から私ちょっとおかしいかも。でも、これって病気のせいだよね?みたいな感覚になっている。やっぱり私は変なのかもしれない。人口の数%が持つ脳の障害これを持っているのだから、変。やっぱり経験によるものじゃないか笑 

でも様々な選択を迫られる中でも自分を持ってキチンと判断できるようになりたいものだ。だって、「私がこの判断をしたのは✗✗という環境のせいです」って言い続ける人生、少しダサくない? まあ、抜け出せるかなんてのはわからないけれど抜け出したいなとは思う。

私を持ったまま行動できるのか。それって本当に私なのか。これはこれからも考えていかないといけない。変なのかそうじゃないのかわからないけど、自分は変じゃないと言い続ける少し変な私。そんな私ともこれからも仲良くしてくださいな。どうぞ、よろしく。


このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。

おやすみ

2日連続でごめんなさい。眠気にのまれて夜更かしばっかりしていると、部屋が酷いことになっていくので……明日はゴミの回収日今回こそは出さなければならないのです。後、眠剤このくらいの時間に入れなきゃな?みたいな義務感もある。ココ最近はミスりまくっていたけどもね笑

多<無>趣味、無方向な私

器用貧乏とは昔の人もうまい言葉を考えたものだと思う。私を指すのにぴったりな言葉だ。色々なことに取り組むが対して情熱を注げないがために長続きせず、得られるスキルも中途半端なものになる。そんなガラクタをたくさんコレクションしたところでなんの役に立つわけではない。打ち込んだものはなにかと問われてもどれもそこまで打ち込んでいないために答えることができない。そんな微妙な立ち位置な私。これを周りの人と比較してみるともっと顕著になる。

私の周りには一芸に秀でた人が多い。ハイレンジと呼ばれる一般のIQテストより高い範囲のIQを測定するテストで人類の0.01%の高いスコアを叩き出した人、スピードキュービングに打ち込む人、パズルを解くロボットを作る人<彼はギネスに申請したと言っていた>。直接の絡みはないものの、観測圏内にはジャグリングで世界記録をたくさん保持している人もいる。皆なにかしらに特化していてその分野で力を出し惜しみせずに取り組んでいる。

対して私はといえば趣味という趣味も特になければ得意だと思うこともそんなに無い。以前幸田直樹さんが周りができなくてあれっと思うことが自分の才能という旨のツイートをしていたが、それも思いつかない。強いて言えば文章を書くことくらいか。上手か下手かはわからないが続いている。でもこのくらいしか無いのだ。

趣味がまったくなかったわけではない。いままで、集中力が持続せずひとつひとつに打ち込む時間が短くなるのに、たくさんのことに取り組んできた。例えば今までのところだと、工作、読書、スピードキュービング、パズルを解くこと、東方、文章を書くこと、ペン回し、ベグレリ、メモスポ、デジュリドゥなどだ。これらに首を突っ込んではすぐに離れてを繰り返してきた。スキルも当然身につかない。スピードキュービングではいくつかの手順を覚えて20数秒で解ける様になったけれど、10秒台には手が届かない。とはいえ新たに手順を覚える気にもならない。怠惰。

ひとつのことに固執するよりも色々なものに取り組んでいきたいという傾向を私は持っている。そのほうが私には楽なのだと感じている。それはそうだ。物事の美味しいところだけ、甘い汁だけを取ろうとすると表層だけを取りがちになる。もちろん深みにハマればそれだけ面白い世界が広がっているというものもあるだろう。ただ、その段階に達するまでに飽きてしまうのだ。ひとつのものにハマり続ける熱中力を上げる方法があるならぜひとも試してみたい。

きっとどこかで楽をしてトップ層に食い込みたいという欲求があるのだと思う。自分のどこかに才能があってその才能を活かせる場所を探しているような、そんなふうにも私の行動は見られる。そんなに甘くはないだろうなと我ながら思う。でも捨てきれないこの気持、なんとか収拾したいものだ。

余談だが、頭の良い人にありがちな趣味というのはあると思っている。それらは大抵練習を必要とする、本人のスキルが必要なもので、ランキング化されることも多い。私の身の回りだと、ハイレンジのIQテスト、メモリースポーツ、スピードキュービング、パズドラが例として挙げられる。ハイレンジなどは出会えているだけでもある程度の知能が保証されている傾向があるが、それでも知能の高い人の遊び場という感じがする。音楽では知能の高い人はインストを好む傾向があるなんていう研究が存在するようだが、趣味についても傾向はあるのだろうか。少し、気になる。

自分の才能を活かせるところを探すのではなく、自分の能力を開発するためにも1つの趣味に打ち込みたいという思いはある。そしてその対象も大体想像がつく。作曲、お絵かきなどがそうだ。正直自分の持つ能力がこれらに向いている可能性は高くないが、一般教養的にできるようになっておきたい。ダ・ヴィンチにはなれないけど、その精神は持っておきたいとでもいうのだろうか。現代社会において知っておくべきことは多く、広い分野に及ぶ。その片鱗に触れ、1つは深く掘り起こしておきたい。そんな気分だ。ポリマスになりたい。けれどエキスパートにもなりたい。歪んでいるなぁ笑

特定の趣味を持とうとすると続けるための義務感のようなものが生じるのが私の悪い癖だと思う。これのおかげで続けるのが難しくなる。これを感じずにできていることを伸ばすべきなんだろうな、きっと。それは読書と作文くらいか。それでも私はどこかで多趣味になりたいのだ。広範な知識を操れるようになりたいのだ。ああ、ワガママで何者にもなれない私。それでも生涯いろいろな分野のものに手を出し続けたいなと思うのだ。読書と作文はそのための指針にして様々な方向に発進できたらいいな。この2つはできて当たり前のスキルみたいなところがあるし。


このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。