アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

異なるコスト、おんなじ体験。学びに対するモチベーション

今日は友人らと遊びに行った。秋葉原で集合して周辺の探索をしたり、ガード下のおしゃれなお店を見て回ったり。上野に出た後は浅草まで移動して浅草寺を観光。その後、東京スカイツリーに登った。その後も散策は続いたのだが、主な流れはこんな感じ。楽しそうでしょう?

遊んでいる中でふと疑問に思ったことがある。それはスカイスリーの料金は一般2,700円と障害者1,400円で差があるが、これは一体何なのだろうか、というものだ。そしてこの差は学びを得る上でどう影響してくるのか考えてみたい。

そもそも、体験するにあたって要求されるコストをどう考えていいのかが私にはわからない。今までだったら人件費とサービスにかかる維持費と今後の展望を望んでの収益というところかなと言うことができた。ただ、今回は別だ。エレベーターで高さ450mの高さまで私達を運ぶ。言ってしまえばそれだけ。私は特段軽いわけでもないし体積も人並みだ。安くする理由がいまいちピンとこない。障害者手帳を持っているだけでこれだけの優遇を得られているのはちょっと妙な気がする。

そこで思いついたのはコストは「体感的に」平等だと思える分だけをとっているのではないかというアイデアだ。累進課税みたいな。この「体感的に」というのにはかなりの曖昧さが含まれているが、こう考えれば多少乱暴でも話は片付く。健常者と比べて障害者はキャパが少ない。今回は関係なかったが生活保護を受けているというのもキャパの少なさを物語っている。だから、体感負担を減らすためにコストは減る、という感じ?

この論理に則ればキャパが大きい、すなわち裕福な人はそれだけ多くのお金をコストとして払わなければならなくなる。これはどうもおかしい。だけど、実際彼らはそうしている。必要最低限のものから多少贅沢できるようになって、多くの人はそれを選択しているからだ。

こう言いかえることもできる。こういった援助を得ることのできる人は別のところで苦労をしていて、それもコストに換算されると。障害者なら対人関係とか普段の生活で苦労してきているでしょ。それをコストとして認めますよ。普段そんなコストを払って生活しているのだから、今回はまけてあげるわね。こんな感じだろうか。よくわからないようなわかったような。乙武洋匡さんが障害者割引に関するnoteを書いていたが、有料なため読むことができなかった。今読んだら最高に勉強になりそうなのにな.......。残念。

なんにせよ、健常者と障害者で価格設定が異なるのが実際だ。すべてのサービスに適応されるルールではないものの、大きな流れとしてそれはある。それならば次はこう考える必要がある。それは私達にどう影響を与えるのか。

今日同行したFはとても関心を持ってスカイツリーに臨んだようだった。そして多くの学びを得たように思えた。もともとFは好奇心旺盛な性格、調べごとはすぐにしないと気がすまないような人間だ。彼はスカイツリーの展望エレベーターの前の展示やエレベーターの構造等も、念入りに調べて撮影しているようだった。そして新しく得た知識を既存の知識に結びつけるということもしていた。隅田川の流れと地図アプリを比較して、自分の家の大体の位置を確かめるなど、彼が得た学びは多かったに違いない。

対して私は実のところスカイツリーにはあまり心動かされなかった。それよりも久しぶりの交流を楽しむ方に注意が向いていて、展望デッキに上がったときにも、「チケットと引き換えに街がミニチュアになっちゃった」とぼんやり思ったくらいだ。Fのような能動的な学びからは程遠かったと思う。見様見真似で写真を撮ったりしてみるも、格好だけだから「きれい」くらいの感想で終わってしまう。学ぶことに本腰を入れられなかった。遊ぶことに集中していたとでも言うか。

すべてがここに落ち着くとは私も思っていないが、Fと私のスカイツリーに対する態度の違いに一役買っているのは払ったコストの違いではないかと思う。彼は2,700円、私は1,400円。2倍近く違う。

コストがかかるほど元を取りたくなる心理はやはり働くと思う。身を切っての出費があるからこそ生きた学びを得ることができるのではないかと。当然、コストをかけてもだめなケースはあるが、それでも1因としては十分に機能するのではないか。

その意味で私の障害者割引は私の学びに対する必死さを削いでしまった。私は精神2級の障害者手帳をもらっているが、薬のおかげで安定してきている。今でも2級を取れるかと言ったら取れないだろう。なんだかんだで健常者と同じような生活を送れていると<本人は>思っている。そこに割引。これは体験に対するコストを下げることにほかならない。それで学びに対する貪欲さが薄れてしまったのだ。

自ら学びの幅を広げようとした体験はいつかと訊かれたら私は中3の卒業旅行で京都と奈良に行ったときだと答える。親から修学旅行にかかるお金の話は毎日のように聞かされていたし、仏像とかが全く理解できないのも悔しいから能動的に臨んだ。しおりの表紙なんかも描かせてもらっちゃって。三十三間堂で鳥肌を意識的にたてて、何かを感じ取ろうとする。こんなことをした人は同学年では私くらいではないか。

その時のハングリーな精神をいつの間にかどこかにおいてきてしまったようだ。ただ、これは一概に悪いものではない。いちいち過敏に取れるようにセンサーを張り巡らせては体も精神も持たない。加減が大事だ。

常にハングリー精神を持って何でも学ぼうとすること。これは理想だ。理想を叶える前には現実に足をついて考え直す必要がある。その現実的な方法を教えてくれるのは先程話していたコストの話だ。これはある程度は指標になる。自分が何にコスト<時間、お金>を使っているのかを正確に把握していれば、新しい物事には学ぶモチベーションとともに取り掛かれるだろう。

自分の使える資産、お金と時間の使いみちにはうるさく有りたい。そして多くを学んで年老いていけたらなと思う。好奇心の強さでは負けない。そんな精神でありたい。ここに1つ言葉を引用しよう。「常に多くを学び加えつつ年老いん」。これを唱えながら今日は寝ることにしよう。


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