アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

生活と向き合う。炊事を少しだけ始めてみた。

冷蔵庫と電子レンジが揃って、食事に関してはだいたい安心できるようになった。米はパック米を買って食べればよく、数時間賞味期限を過ぎたお惣菜も冷蔵庫があればある程度安心して食べられる。それから、冷蔵庫が来たことで冷凍食品も扱えるようになった。これはありがたい。とりあえずお金か備えさえあればそこそこのコストで食べ物を調達できるようになったわけだ。めでたい。

マズローの言う欲求階層説というのはある程度あたっていたらしい。生理的欲求、この場合は食べることや寝る場所の確保だが、がある程度満たされた私はインターネットだとか、勉強などの高次の欲求に私は思いを馳せる。光熱費や水道代はまだ勘定に入っていないが、それでも自分のやる必要のあることのレベルがこの少ない期間の中でも上がってきている。これは良い傾向だと思う。このまま自己実現の欲求まで上がりきってしまいたいものだ。え?承認の欲求と所属と愛情の欲求はどうしたのかって?私にとって、それらはなくはないものの、重要でないものであるということだ。いや語弊を恐れずに言うなら、常に求めているのがデフォルト<そして満たされない>だから、意識に登ってこないということだ。

ただ、今の私の状況はお金さえあれば食事は大丈夫というだけであって、お金は依然として大切なものに変わりない。節約するために何ができるかというと、節電・節水がすぐに頭に浮かぶ。ただ、どのくらいのコストがかかるかを知らないものだから努力の結果が見えない。そう思うとモチベーションも下がってしまうのである。そういった意味で1番続けやすい節約方法は自炊になると思う。

自炊しないで、毎食500円使ったとしよう。その月の食費は30,000円+αになる。飲み物代だったり、ついつい買ってしまうおやつ類を考えるとしかたのないことだ。だが、自炊をすればかなりコストを削減できる。例えばついったでつながっているネッ友は食費を月10,000円ちょっとに抑えているという。この差は大きい。ひと月で2万円違うとなると、5ヶ月で憧れのリカンベントに手が届く。食費を工夫して減らしていくのは大変に有効な手段だということだ。毎日繰り返すことだし、継続は力なりということか。

しかし家にある調理器具は電子レンジと雪平鍋、フライパンと冷蔵庫くらいしかない。包丁もまな板もないのだ。他にはなにもない。数百円で買うこともできるだろうが、百均までは距離があるから、もう少し必要に迫られてからまとめて買いたい。そうなると料理する内容にも制限がかかる。これは自然なことだろう。

それではこれらのもので最初に作ることができて、コスト低減に効くのはなんだろうか。そう、ご飯だ。今まではパック米を使っていたため1食100円程度だった。だけど米を炊いて、冷凍、使うときにレンチンするようにすれば、米5kg1700円だと考えて1食あたりは30円ほどになる。電気代等は計算していないが、これはすごい。1食あたり70円のお得。ひと月で4200円の得。初めての自炊としては良いのではないか。

そんなことを考えたらその後の行動は早かった。近所のドラッグストアで1番安いお米を買ってきて、鍋で炊いていく。計量カップはないから、いつも使っているコップで代用した。米を研いで水を大体米の1.5倍入れる。30分浸水させて米を炊いていく。中火で沸騰するまで加熱したら、弱火にしてパチパチいうまで加熱する。その後は10分程度蒸らして完成。文章にしてみると結構大変そうだが、実際にやってみると案外簡単だということに気がつく。炊飯器のスイッチを押すだけには敵わないが、他の作業と並行してできないこともない。

最近は良くも悪くも視点が生活中心になってきていることを感じる。良い点は忙しさにより希死念慮からある程度距離を取れる点、悪い点は学問等への関心が少しづつ薄れてしまう点だ。以前のサカナ<思想>に言わせれば妥協を許し始めたということかもしれない。理想を追い求めることが減り、現実的に生きていく感覚。これに飲まれ始めている。

ただ、私の意見としてはいつまでも、生活に囚われてしまうのではなく理想を追い求めたいわけだ。結果として希死念慮に近づくことになっても構わない。それも私だと思って生きていこうと思う。

お金がないから自炊しようというのは生活に基づいた考え方だ。その中でも鍋炊きをしようというのは私的な発想と言えそうだ。このように、現実で仕方なくやらされることに対してもユーモアや独自の考え方で立ち向かっていけるようにしたい。


このサカナのオーナー、もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。