アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

良くなる体調(仮)と失われる能力。「一般」との向き合い方

最近忙しさや自分の能力の衰えについて書くことが増えた。これは引っ越した後の諸々の影響を受けてのことだ。引越し後は必然的に忙しくなる。そんな状況で時間を捻出できないことを嘆くことは、ごく一般的な行為だと思う。若干自己憐憫の雰囲気をまとっているとしたら喜ばしいことではないが、読み返してみると記事は案外前向きだ。これから先どのようにして時間を捻出するかなど生産的な意見を生み出せているように思う。自分で読み返しても結構これは嬉しい。

ところで私はこのひと月である能力を失っている。これは正直引っ越しとは関係ないことだ。だが、いろいろと自分のやるせなさを書き出しているうちに、この能力の減退も書いておこうという気持ちになった。今日は自分の持っていた能力と、それを失って考えたことについて書こうと思う。

その能力というのは「言葉が降ってくる」というものだ。考え事をしているとき、なにかものを読んでいるとき、寝る前、人と話しているとき......。どんなときにもその「声」は聞こえていた。頭の中に響いているのか、耳から聞こえているのかよくわからなかったけれど、たしかにそれはあって、シャワーを浴びるかのように言葉の雨を浴びていた。と、言ってもその内容はないようなものだ。「千葉国民中央銀行」とか、「サンダバスロー」とか、意味のあるようなないような言葉がたくさん感じられる。そういうものだった。その片鱗はついったで「#戯れきよ」と検索すれば雰囲気をつかめると思う。このハッシュタグは聞こえた声を日本語のように繋げたものたちをまとめている。私は気がついたときにはこの声とは一緒にいて、SSなど創作をするときなどにはお世話になったものだった。

この声との生活に変化が訪れたのがひと月前だ。主治医、武将に何気なく声が聞こえると話したのがきっかけだった。武将は何やら興味を持ったらしく<幻聴を疑ったのかもしれない>、いくつか質問をしてきた。そして四物湯という漢方薬を処方に加えた。これは本来冷え性に効く薬だが、なぜかフラッシュバックに効くのだという。私が半信半疑でGoogleしてみたところ、たしかに桂枝加芍薬湯と四物湯をあわせて使うとフラッシュバックに効くという記事が多数見つかった。神田橋処方というらしい。桂枝加芍薬湯は以前から緊張になぜか効くと処方されていた。こちらも本来は胃薬だ。武将がプラシーボ効果を狙って薬を処方したのかと思いきやそうでもなかったようだ。

こうして新たな処方による治療が始まったのだが、始まって数日で驚くべき変化を感じた。頭の中が騒がしくない。寂しいのだ。何かがぽっかり抜けてしまった感じ。その原因が「声」が聞こえなくなったことによると気がつくのにそう時間はかからなかった。今でもその感覚は抜けていない。まるで声に猿ぐつわをされたように感じる。意識しても聞こえるか聞こえないかの所に声の主は連れて行かれてしまったかのような感覚だ。いなくなることに恐怖感を抱いているから、頑張って僅かな声を聞こうとする。効果はないにしてもできることをしていないと後悔してしまいそうだ。

この恐怖感はどこから来るのだろう。人間の価値は他の人とどのくらい違うかで決まる側面があると私は思っている。産業革命で貧富の差が発生したのも、生産物の価格と人件費等の間に差があったからだ。他の人とどのくらい違う成績を収められるか、優秀であるかというところで価値の差が生じると言い換えてもいい。おそらく私は皆があまり持っていない「声」を失うことで一般人化してしまうのがどこかでとても恐れているのだ。

私が非凡な知人を思い浮かべるときにはいつも4人の顔を思い浮かべる。経歴がものすごいふたりと考え方が異質なふたりだ。それぞれ違った分野で活躍している<活躍が見込まれる>。経歴がすごいふたりに関しては以前の記事でも紹介した。風海と鈴だ。ふたりともエネルギッシュで、今でも世界を舞台に活躍し始めている。ただ考え方が異質なふたりに関してはひとりしか紹介していない。精神の宮殿を用いた視覚化した思考と目的意識ありきの行動を徹底している後輩Hだ。ここでもうひとり、Fちゃんを紹介しようと思う。

Fちゃんとは今年の2月入院先の病院で出会った。私より少し年上の女の子で、オセロが強い。初めてあったときはオセロで6時間くらい遊んだ。それをきっかけに彼女の退院日まで毎日12時間位話す仲になった。今思うと少し極端な生活を送っていたなと思う。彼女は結構重めの強迫性障害持ちで色々と苦労していそうだったが、性格は穏やかでいつも場の空気を和ませてくれていた。彼女のすごいところは犬並みに敏感な嗅覚と小説を書くときの発想法だ。

彼女は家に人が来る前に事前に匂いで感知できるらしい。病院のトイレは共用なのだが、自分の前に誰が入っていたのか、その人特有の匂い<洗濯洗剤のものではない、ナチュラルな匂いを嗅ぎ分けられるらしい。私は匂いが薄いと言われた>で知ることができると話していた。また、布団の干したときの匂いがきつすぎて日陰に3日以上おいたものしか使えないとも言っていた。

私が特におどろいたのは小説の設定の作り方だ。彼女は趣味で小説を書くのだが、小説を書こうとすると目の前にふたりの人物が現れて、会話を始めると言っていた。ふたりの話したことを仔細にノートに書き下していくと小説の設定になっているのだとか。それには人物の名前や地図、料理の見た目も含まれる。入院中は時間がたくさんあるから小説を読ませてもらったり、設定を見せてもらったりしたが、非常に細かく作られた世界観に毎回圧倒された。彼女のような発想法はほとんどの人には真似ることはできないだろう。正直あまりにも特殊だと思う。

考え方が異質なHとF。されらの思考に触れられたのは運が良かったとしか言いようがない。私とされらは長い時間話す機会があった。そこで人との認知のしかたの差であったり、考え方の差に触れることができたのだと思う。それに加えてされらはかなり変わった考え方をするタイプの人間だった<もちろん私の想定する皆が少数派ということも考えられなくはないがその可能性は薄いだろう>。風海と鈴が<考え方の差があった上でかもしれないが>結果で人と差をつけているのに対して、されらはプロセスで差を作ることができている。これは最終的な結果を変える天才の卵そのものではないか。思考法がすでに天才的だが。

私はされらと同じようにというわけではないが、「声」という少し変わった能力を持っていた。しかしそれは薬によって矯正されてしまった。これは果たして喜ばしいことなのだろうか。「一般」に寄せるような治療。これが私には恐ろしく感じる。一般なんて母集団によって簡単に変わってしまうからだ。小学校の時にたくさんの引っ越しを経験しているからそれはわかる。治療の行き先が一般で、自分の能力が削がれていってしまう。これが怖い。気分の変調だけだったら以前の処方でも改善していると思うから、そのままでも良かったのではないか。疑問は尽きない。

皆は自分の個性と皆が持つ「一般」にどのように向き合っているのだろう。身近な所にロールモデルがいないから参考にすることができない。うまい付き合い方を見つけたときに私の思春期は終わりを迎えるのかなと思う。一旦薬を飲むのをやめてみようか。数日経ってまた声が戻ってくる分には構わない。怖いのは完璧になくしたときだ。


このサカナのオーナー、もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。