アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

いつもより変な、少し変な友人に助けられた話

一般的には友人は持っておいたほうが良いと言われる。というよりは、持っているのが普通と言われる。小中高とどこかでクラスが同じになったり、部活が同じになった同学年の人間と友人になるのは簡単だろう。どうもこういうことらしい。私の場合は環境のせいなのか私の性なのかわからないが友人らしい友人はほとんどできなかった。一応ネッ友は別枠で考えよう。ネッ友がいるのに友達がいないというのは 彼/彼女 らに失礼に当たるというものだ。感謝していますよ、本当に。しかし現実感をまとった相談相手的な、物理的に作用を及ぼせるような友人は、やはりほとんどいないのだ。

みんな私のことを友人だと認識してくれるようだが、当の本人はそう思う勇気がないのである。「確かに級友ではあるけど友達というほどなのか?」なんてずっと考えてしまう。そんな私が「友人ら」から見たらどう見えるのかというと、やはり他の友達達とは少し違うらしい。私はこれまでいろいろなコミュニティに所属してきたけれど、変人が集まると期待していた場所でも、私が変人筆頭のようになってしまう。毎回なんで?と首をかしげたものだ。動物園に珍獣を見に行ったら私が檻に入れられましたといった感じ。毎回変人のレッテルを貼られる。最近はついったで変な人<?>と絡むことが増えたから、薄れてきたような気がするが、久しぶりに同級生に会うなどすると「ますます尖ってきたね」などという。

私が友人と言えるのは現実的に考えて3人位に絞られる。彼らは別に変人だとかそういうものではない。私と長くやっていられるというだけで少し変なのかもしれないが、それはおいておく。みんな人であるから、平均から外れたところはみな持っている。1人は量子力学の知識を高1のときから持っていたし、1人は<おそらく>平均より規範的だ。そんなすこーしだけ変わった友人を私は持っている。

この少し変な友人のおかげで助かったことが1つある。殺人犯にならなくて済んだことだ。その日私は規範的な友人と川遊びをしていた。彼をPと呼ぼう。中学生の頃だった。学年は覚えていない。市内にある歩道ほどの幅の川の近くで魚の飛び跳ねるのを見たり、石器もどきを作ってみたりしたのだ。そして、それらに飽きると川遊びの代表格、水切りを始めた。私がこちら側で、Pは向こう側の岸にいて。はじめは真面目に平たくて小さい石を探して5回とか良い記録を目指してお互い頑張っていた。しかし、経験したことがある方はわかるだろうが、石を探して投げてを繰り返すだけでも案外疲れるものだ。頭にも血が回らなくなっていたように思う。単調な刺激に飽きていた私はPにいたずらしようと思った。暑かったのもあって、水をかけようとしたのだろう。乳児の頭ほどある石を手に取り、Pの目の前の水面に向けて投げた。これで水が飛び散りPはびしょ濡れになる、はずだった。実際は石がすっぽ抜けて、彼の頭部に思い切りあたったのだった。石はものすごい勢いで跳ね返って、川に飛び込んでいき、ゴンッと鈍い音がした。私は目の前がチカチカして、しまいに真っ暗になった。私はPを殺したのだと本気で思っていた。Pが「なに?今の」と言うまでは。

彼は無事だった。なんでも小学生の頃に「自転車に乗るときにはヘルメットを」と言われたのを律儀に守っていたのだそうだ。幸運なことに、彼は長時間の川遊びの間にもそれを邪魔だと取ることがなかった。そして、私が石を投げたときに投げるのに適した石を探すためにしゃがみこんでいたのだ。おかげでヘルメットが私の投げた石を弾き返してくれたというわけ。彼には後でジュースを奢ってやったがその程度で済んで良かった。ちょっと変なP がいつもより変なことを絶妙なタイミングでしていたからこそ、彼の命は守られ、私の社会的生命も絶たれなかったのだ。

変人と呼ばれる私が変なことをしようとすると、かなりの偶然が重ならないと何もなかったことにはできないらしいことがわかった。これに懲りて、変なやつを相手にするとき以外のいたずらは控えようと思う中学生の夏だった。

このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった