アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

一日一日を消費して生きていることについて

この記事は睡眠剤の入った状態で、無理くり起きて書いています。普段の私と少し違ったり、論理的な飛躍が大きくなる可能性があります。その旨確認した上で読んでください。私の汚点。

私は今、仮に生きている状態だ。当然仮死状態にあるとかそういう意味ではない<ある意味ではそうなのかもしれないが>。誰もが「〇〇歳まで生きたい」あるいは「〇〇歳までに死にたい」と話題にしたことがあると思う<そうであると願いたい>。私は正直早く死にたいなあと思う側である。死んだら他人に迷惑がかかるというが、どうにも生きながらえて恒久的に与える迷惑のほうが多いように思えてならないのだ。今でも児童養護施設だとか生活保護とか奨学金とかいろいろなところの支えがあって私の命があるわけで。当然これらに対して恩送りだとかそういうものも考えたが、なんとも希望が薄い。こんな平々凡々な人間に何を求めるというのだ。経験談なんて話したところで救われるものも多くはいまい。能力に関しても私は大したことないと思っている。幸い<?>ついったでよく絡む人は私に尊敬の念を抱いてくれている人もいるようだ。しかし、だ。高卒<高校でも留年経験あり>で特に資格を持っているわけではない私。TOEFL 85 点は誇っていいのか微妙なレベルである。そして、双極性障害持ちである。正直、社会の役に立つというよりはお荷物になる側の人間であろう。そこで自分に課した<正確に言えは看護師に課された>のが25まで妥協して生きるということだ。これが冒頭で仮に生きている状態だと言った理由だ。なぜ25歳なのかというと措置入院で送られた先の看護師さんに「生きろ」と言われたときに、自信を持って<8割くらいの確率で>自殺しないと言い切れるのが25歳位かなと思って、約束してしまったことに起因する。基本的に私は約束は守ることにしている。もともと守れない約束はしないのだが。入院も終盤、楽観的になっていたのだろう。とりあえず25歳までは生きなければならない事になった。私の残された<残させられた>5年間で何をするか。これはもう少し真剣に考えなければならないことなんだと思った。現在私はグループホームを探している最中である。グループホームというのは精神障害を持っている人が住む場所で、就職含め自立の支援をしてくれる施設である。先日見学に行った。生活保護やらなんやらで家賃はタダ。敷金や防火保険もタダである。生活保護様様だが、借りを借りている感がすごい。私にこれを社会に還元できる日は来るのだろうか。グループホームにも実は二種類ある。滞在型と通過型だ。滞在型は期限がなくそのまま住み続けられるタイプ。就職とかも一応も可能だし。対して通過型。こちらは基本2年しかいられない。就職が難しい場合等は3年まで延長可能だがいずれは自立しなければいけない。そういうポジションである。私はおそらく通過型に住むことになるだろう。というのも滞在型は募集者が多く、競争が激しいからだ。その点から考えると25歳という年齢設定はある程度意味のある数字に思えてくる。GH で2~3年間職探し。無理なら死あるのみ。わかりやすいね。となると残りの5年間をどう過ごすかは非常に大事な要件となる。正直な話をしてしまえば、別に今死んでもいいんだ。なんてたって、私を生かしているのは<少なくとも精神的な支えとして存在するのは>看護師との約束であり、これは破ろうとすれば今すぐ破れるものだ。約束の不履行なんてみんな少なからずやっているだろう。デートのドタキャンとか。そのノリで約束を破棄してしまえばいいのだ。まあ、私の真面目さというかなんというか窮屈な倫理観がそれを邪魔するのだが。これらがなければ私は死んでいるだろう笑 さて、私はそんな感じで仮寿命を5年後に設定しているわけだが、これは案外いいことなのかもしれないと最近思うようになってきた。というのも毎日を死をベースに考えることがでるからだ。死なないための1日。これは5年という暫定寿命の中から削って作られているものである。残り日数が100日とか10日とかならありがたみがわかりやすいのだろうけど。毎日苦しみながらみんな生きている。そうであってほしい。少しひねくれた性格が顔をのぞかせたな。5年とか期限を決めると一日一日に対する意思が変わってくる。焦り等の感情も感じるが、濃密な時間を過ごせているという自負がある。そんなわけで、5年間だけ生きるというのは良いアイデアなのかもしれない。毎日かったるいなと言う方こそ試してもらいたいという思いがある。まあ、何をせずともいずれ私は死ぬのだ。ならば一日あたりの比重を大きくして大切に<よく考えて>生きたほうが良いように思う。毎日毎日いずれ枯渇することがわかっている鉱山からひとかけらずつ宝石を取り出していくのだ。その宝石も様々で石ころのようなものもあればダイアモンドのようなものもあるのに違いない。気分に左右されるからそれを管理して、少しでもいい1日を送ること。石ころであっても磨いてやることが今できることなのではないかと。何が言いたいのか私にもわからなくなってきた。ちょっと気分が高まっているのもあって、前向きなのかな。シラフの私が見たらなんていうかわからん。少なくとも「よくもおまえは前向きになれるな」とかは言いそう。まあ、無機質な毎日を暮らしているとは感じているよ。フォードを組み立てるときみたい。ベルトコンベアに流れてくるのを単純作業で回すだけ。ただ、その作業の質をあげようと、そういう事を言いたいのだろうな。ここで日にちが変わる。前回この文章を書いていたときにPCを閉じ忘れたようだ。母が内容について触れてきた。それで『7つの習慣』を読んだか尋ねてきた。読んでいない。なぜかと問い返すと「希望が持てるかもしれないよ」という。希望を持って1日を過ごすとなにか変わるのだろうか?正直、いま機械的に毎日のサイクルを回しているのが心地よい。読書、ブログ、ついった。それからすこしのお勉強。様々なメディアに囲まれている中で、それらに反射する形で生きている。否、生かされている。いつになったら主体性のある生き方にたどり着くのだろうか。環境からの超越。そんなものが可能なのか。不可能だろうな、と思う。それでも少しあらがってみたい。私はそう思う。1日1日の質を高めていく傍らで自分の能力を超越できないかな。夢物語だな、きっと。こうして私の1日は終わる。決断の日までは残り2016日か。今日と直前の1日は同じ価値を持つのだろうか。理性的に考えるとそうだ。私は、一日一日を消費して生きている。26の誕生日その次の日に生きているかは今はわからない。お医者さんの言う通り妥協して生きるのか、諦めるのか。真剣に考えよう。