アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

立ち回り。特に学校におけるものについて

私は家庭の環境は悪いと他者からよく言われる。しかし、学校での人間関係は良好だったと思っている。養護施設にいたころも同じ家で暮らす仲間と学校にいくのは楽しかった。頑張って思い出してみると何度もあった転校のなかで、無視だったり疎外的な態度を取られたことはある。だが、それらがいじめという程度のものだったかは今の私には確かめられない。私は何度も引っ越しや転校を繰り返すうちに、それとなく空気を読んで環境に身を合わせる方法を学んできた。これは、約9ヶ月に一度の引っ越しに対応すべく身につけた私なりの知恵だった。今の私を知る人には想像がつきにくいと思うが、小3のときの私は「声が大きく朗らかで活発な少年」だった<これは通知帳に書かれていた文を少し改変した文章だ>。そして、小4になって引っ越すと一転、「穏やかで好奇心に富む読書家の少年」になった。当時のことを思い出すと良くもまあそんな変身をできたものだと、改めて感心せざるを得ない。まあ、変身し続けるのは難しかった。今いる街には今年で9年間住んでいるのだが、小中高と共通の知り合いができたことで変身にも整合性を保つ必要が出てきた。結果、破綻して精神科にかかったのが3年前の今くらいの時期だ。これについて今回詳しく述べるのはよそうと思う。正直いろいろな要素が絡まっているから「人間関係の失敗」でかたづけられると思っていないし、今回のテーマから少しずれてしまうからだ。

今回、学校の立ち回りについて書こうとしたのには薄ぼんやりながら理由がある。ひとつは障害者として支援をうけるにあったって、事業所と計画を作る必要があるのだが、そのときに上に述べたような引っ越しの話をしたことだ。これは私の今までを振り返るいいきっかけになると思ったのだ。もうひとつは妹が最近学校での立ち回りで困っているようだからだ。どうやら無視をされたり、無茶苦茶な論理で何でも妹のせいにされてしまうのだとか。本来であれば私が何かしらの助言ができればいいのだが、私は特定のグループにいるというよりは様々なグループを行ったり来たりするコウモリみたいな存在だったから、今の妹の状態に対して適切なアドバイスはできない。グループを抜けると言っても小1から形成された結構長い仲らしいからたちが悪い。どうしたものか。まあ、児童養護施設に入って<幸か不幸か最近現実味を帯びてきた>新しい環境から始めるか、今のグループから追放されて他のグループに入るかが今ありそうな決着のつきかたかな。理由はこんな感じ。あんま大したことがないって?そんなものでしょう。物を書き始めるときなんて。今回は私のケースと妹のケースで何が違ったか考えられたらいいなと思う。

まず思いつくのは性差だ。妹は女で私は男だ。一般に女の子のほうがグループとかを形成しやすいと聞く。男でグループみたいになることもあるけれど、その実一人ひとりが独立した連邦みたいな形になっていることが多いと思う。これは私の経験に基づく偏見だ。だけど、今まで触れてきた同年代の男子は大体そうだったような気がする。それと高校で出会った女子は集団の中でも自立していたように思う。これはうちの高校の特色とも言えそうだ。研究を課す高校だからこそ自立心の強い女子が多かったのではないかと私は考えている。それとは対照的に今の妹が置かれた環境は皆が皆グループにもたれかかっているよな印象を受ける。所属感とか、孤独感に対する恐怖によって構成されているような感じ。自立したグループでは、ただ面白いから絡むのに対して束縛力が強い。だからこそ一度入ったら抜けられないような状況が生じているのかもしれない。

次に私と妹の関心の向かう先の違いだ。妹はとにかく人と関わることを好む。友人関係でそれが強く出ている。話し始めるときも「〇〇ちゃんが~」という事が多い。対して私。正直人間関係に興味はなかった。今でも関心は薄い。議論したり情報を交換する相手としての人間には興味があるけれど、人の過去とかにはあまりこだわらず今何を考えているのか、その内容が気になるタイプだった。小1から図書室にかよっていて、クラスでは少し浮いていたのだろう。担任から「外でみんなと遊びなさい」と言われたのを覚えている。そう言われて初めて人間関係を構築する必要を感じた。その産物として石器を作る仲間ができたのは面白かったが、これはまた別のお話。引っ越し等を経験してもこのスタンスに変わりはなかった。積極的に関わるかそうでないかは常に選択していたけど、それがなくなるからと行って何も苦ではなかった。妹の欲求は友達ありきだったのに対して、私は自己完結的だった。それから私には本から得た面白い知識があった。これが短期の関係を持つときに有利に働いたのだと思う。

あとは人とのズレの違いとこだわりの強さか。良いことか悪いことかは私には判断できないが、私は人から「変人」と呼ばれることが多い。妹もそうだ。表立って変だとは言われないが、実はちゃんと自閉症アスペルガーの診断をもらっていた<いた、というのは後に取り下げられたからなのだが>。私から見た妹は正しいことを愛する。そんな人に見える。そしてそれに対する固着心が大変に強い。どんな不利益があろうと正しさを追求しようとする。例えば母相手に、今、相手の間違えを指摘したら鉄拳が飛んでくるのが明らかな状況でも正しさを優先しようとする。対して私は表上は「なるほど」とか「たしかに」と相づちは打てる。その意見を受容するかどうかはさておき、表面上では受容したかのように見せる事ができる<実際は思索を後で巡らすための保留なのだが>。きっと、友人関係においても妹は正しいことを追求し続け、それを表明しているのだろう。私としてはそれは素晴らしい才能であり、誇るべき宝なのだが、危険な刃でもあると思う。正しさはときに無邪気さを伴ってひどく恐ろしい力を見せる。それを無意識のうちに行使してしまっているのではないか。多分している。メタ認知して、妥協することを覚えればいいのになと思う<教えてはいる>。自分が妥協することを許すことは私にとっても大きな課題だ。私達兄妹は奇しくも同じ課題を抱えているのだ。

振り返ってみると、私がここまでうまくやっていけたのはかなり運が良かったからだと思う。だってそうでしょう?普通に長期の付き合いをしていく中ではきちんと<?>他人に興味を持つことがきっと必要なのだから。数々の引っ越しが私に人間関係を考え、自分を俯瞰してみる機会を与えてくれた。様々な役割を演じる中でも自立した付き合いの大切さに気が付かせてくれた。周りの人間に、様々なグループで浮動する私を受け入れてくれる人が多かったのも運のおかげだろう。そのおかげで私は生徒会長を務めながらも成績を保てたのだから。これらの要因に主体的に係ることは難しい。私は単に運が良かったのだ。妹には同情する。協力も惜しまないようにしようと思う。これからグループホームに入る私がどのように妹に関われるかというと難しいが、なんとか解決してやりたいものだ。できることなら楽しい学校生活を送らせてあげたいと切に願う。そして私自身もこれから社会生活を送るにあたって、人間関係のあり方を見直そうと思う。自立していてラクなかんけいがいいな。

このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった