アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

読書感想文

今日はTLで「読書感想文」という文字列を沢山見た。無理やり書かせることは読書嫌いの原因になるとか、結局は先生への忖度の表れだとかいろいろなことが言われていた。自分も小学生のときに読書感想文を書いたことがある。回数は覚えてないが複数回だったように思う。1回は確か神秘島物語について書いたんだったな。海底二万マイルのネモ船長が出てきたことに驚いた記憶がある。当時は作者を考慮せずに面白そうな本を読んでいただけだった。だから驚いたのだ。私の読書感想文はいつもつまらないものだったように思う。今でも面白く書ける自信なんてものはないのだけど、当時の読書感想文はただの要約だった。物語をまるっと解説するような要約をつくり、後から読んだときに何を考えたかを付随させたものに過ぎなかった。イメージとしては8割が要約、1割が本を手に取ったきっかけ、残りの1割が考えたことだった。そしてその書き方に満足していたのも今思えば問題だったと思う。夏休みの宿題で出された課題を初日に読んで、文章はその数十日後に書くのだ。あせって即興で書く部分もあるから推敲なんてできるはずがなかった。宿題完走!それで終わり。書きたいものを書いてる感じはなかったな。そういう意味では無駄な労力、教育だったのかもしれない。これのおかげかわからないが、私は小論文の模試で要約をべた褒めされたことがある。感想文ではないわな。

もし今読書感想文がかけるとしたらどんな風に書くだろうか。今、私は読書に対してかなり積極的に関わっていると思う。毎日のように図書館に通っているし、2~3日に1冊は必ず読了している。題材には困らないだろう。むしろ読んだまま、言い換えればインプットしたまま放って置く気持ち悪さを感じている。何かしら書いてアウトプットしたいというのが率直な気持ちだ。ただそれは感想としてではない。感想というと少し軽過ぎる気がする。ほかの本との対比であったり、自分の人生観と何が違って何が同じなのか、なぜそう思うのかなど。表層的な「感想」ではない「読書体験」を書き出したい。たとえば、私はカミュの『異邦人』を読んでいる途中だが、独特の文体に興味を持っている。短文が連なる形。最近読んだ中では心情をそのまま写し取るという意味で金原ひとみの『オートフィクション』に近い。そしてその短文の束が、なにやら主人公はどこかおかしいことを物語っているように思われる。これはなぜなのか。所々に出てくる「○○しない理由は、別になかったからだ」というフレーズのせいか云々。このように書くことは沢山あるのだ。感想ではなく読書体験として。当然その中に感想が含まれても良いが、私はこのように書けるほうが書きやすく感じる。

私が勝手に考える分には別に良いだろう。読書感想文には読書を推進する以外に、自己を表現する機会の確保という意味があると思う。読書感想文は「本について」、「自分の学んだこと<教訓>」を書かないといけないと考えるから苦しくなるのであって、「本から出発するならば何を書いてもいい」という風にすれば特に難しくなくなるのではないか。本の内容でなくてそこからどう広げられるかが大事と言い切っても良いかもしれない。結局本を読むということは自分の言葉で解釈しなおすという作業が入るわけだから、いかに読んだかを書かせればいい。私はそう思う。かねこみすずの『私と小鳥と鈴と』をよんで「これはきれいごとだ。私はみんなおんなじのほうが良いと思う。基準の決め方は~~」なんて書くのも面白いと思うし、「まったくそのとおり。これは多様性を謳った詩ではないか。私は○○という点で皆と違うけれど、社会が△△になればこの点を生かせる」なんて意見も面白い。もっといってしまえば退屈なら退屈とそのまま書けるのがいい。「つまらない本を読んでしまった。この時間はピッチドロップを眺めるのに使ったほうが良かった。次回からつまらない本に時間を使わないように私なりに考えをまとめようと思う。この本の前に読んだつまらない本と同様この本は○○な特徴を持っている。~~」等々。

結論。読書感想文に苦しむ人は本の内容について書こうとしすぎなのではないか。もっと広く見て、読書体験をまるっとかければ楽しく自己表現できると思う。自己表現したくないならしなくても良いと思うし。「この本は読書感想文に書くためにいやいや手に取りました。何で書くのかわからないけれど読み進めることにします」なんて実況風に書いても面白いかもな。×読書感想文、○読書体験文。そんな感じで書けたらよかったなと今振り返ると思う。これから感想等書くときにこの考え方を使おう。このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった