アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

裏方

裏方。舞台とかで俳優さんを支える人たちの総称だな。そこから目立たないところで働く影の功労者という意味もあったはず。自分の人生を軽く振り返ると主役ではないが脇役くらいの役割を与えられている気がする。村人A 的な。少し希少性の高めの経験をしてきた19歳、街人A。なぜ自分のことを裏方じゃなくて脇役だと判断したかって? それは裏方というには働かなすぎている上に、甘い蜜を吸って生きてきた感覚があるからだ。自分は努力の人だと自覚している人は世間にどのくらいいるのだろう。そんなに多くないのかな、とおそらく偏見が強く入った我見から思う。自分がそうだからか、成果に対して努力の量が見合ってないんじゃないかなと。努力しないで成果を得られる分には良いではないかと考える人が多くいると思うが、私の場合はそうではなかった。自分にそこまで実力がないのではないか、賞を受け取る資格がないのではないかと思い悩むことが多かった。障害者手帳を受け取ってやっと落ち着いた。ああ、やっぱりそうだったんだなと。今はきちんと努力する仕方とかを学ぶ期間だと個人的には捉えている。このまま支援を受けっぱなしでいるのは落ち着かないから、いずれは恩送りするか早急に支援をストップさせる。このまま妥協しながらも努力をできるようになれば平均よりは上の働きができるだろう。たぶん。私の人生における裏方は児童相談所という機関だったり児童養護施設のような支援をはじめとして枚挙に暇がない。今使っているPCを作ってくれている人もいたわけで。逆に誰かの裏方に回れたことはあるか? 考えてみるも思い当たる節はない。どの視座から見るかによって裏方、主役、脇役は変化するんだろうな。まずいないだろうが、私のことを消費税を納めているとして裏方としてくれる人がいるかもしれない。人との関わり方で自分の見方も変わってきそうだ。自分が主役の人生は送れたらよいかもしれないが、むずがゆい。このむずがゆさと戦う勇気を持ち合わせているかどうかが、自分主役の人生を送れるかどうかの一種の試練なのかもしれない。まあ、ともかく私の認識では私は裏方ではないのだが、裏方の方はかっこいいと思う。飛行機を作るときに部品を変えてはテストを繰り返す。何万回も、データになるのわからないものまで。そういう人を私は知っている。実際私たちの生活は多くの裏方として働く人の上に成り立っているのだ。自分の中で納得する形で、誰かのための裏方になれたらな、と思った。