アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

うれしさを何段階のレベルで表現できるか(悲しさも)

前回までの四面鏡、アナライズ、ダルマに引き継いでついったからのリクエストだ。「うれしさを何段階のレベルで表現できるか」。なかなか面白い問いだと思う。まずは悲しさとうれしさを同じ土俵の上に乗っけて比較してみたいと思う。それと今回は偏見や独断が入ることが多くなると思う。論拠に自分の経験や感覚を多く入れることになるからだ。まずそのことをことわっておこう。

早速偏見だが、うれしい感情は悲しい感情と比べると単純な気がする。ポジティブな感情とネガティブな感情で比較すると後者のほうが複雑に感じられることが一因だと私は思っている。たとえばここでポジティブな感情を表す言葉を挙げてみよう。尊敬、情熱、うれしさ、よろこび、達成感<これは一種のよろこびでは>。こんなところだろうか。次にネガティブな感情を表す言葉を挙げてみよう。妬み、嫉み、屈辱、自暴自棄、無力感、暗澹。こちらのほうがはるかに挙げやすい。実際に比較したことはないが、日本語ではネガティブとされる語彙のほうがポジティブとされるものよりも圧倒的に多いのではないか? 加えてよろこびの感情は混ざりにくい純粋なものになりがちだが、悲しみ含むネガティブな感情は併発することが多いように思う。これがうれしさと悲しさで違う部分なのではないか。たとえばうれしいとき、このときには理由があると思う。「○○だからうれしい」といったように。しかし「うれしさとよろこびが混ざった気持ち」になることは少ないのではないか。対して悲しいときは同様に理由を挙げられるほかに「悲しみと恨み、妬みが混ざった気持ち」といった使い方が普通にできる。ネガティブな言葉のほうが他の感情を表す言葉との相性が良いように思われる。ネガティブな感情のほうが豊かにあらわせるのだ。

ここまでの話で納得いかない部分があったら、おそらく経験の違いだろう。私はさまざまな経験をしてきていると自負しているが、それは良いことというよりは悪いことのほうが多かった。そのうちに触れる語彙はネガティブなものになっていってしまったのかもしれない。そのせいで上のような推論をしているのだ。でも、ハッピーな同人誌よりもバッドエンドな同人誌のほうが多いような気がするが......これも私の趣味のせいだといえばそうなのだが、人間の感情の複雑さはネガティブさが入ってこそだと思う。これは持論だ。

それではネガティブな感情、悲しい感情のほうが表現の仕方が多いのか。これは違うといえる。私はうれしさのレベルが伝わらないときやうまく消化できないときに「ノートの切れ端で指を切ったた悲しさを相殺できるくらいうれしい」といった表現をつかう。感情の相殺論としておもにポジティブな気持ちを表すときに使う。皆も経験があるのではないか「百年の恋もさめる」なんていうのも相殺論に含まれると思う。これを使うとうれしい気持ちにも悲しい気持ちと同様の広がりを持たせることができる。

そんなわけでよろこびと悲しみの表現は多くをネガティブな単語に依存しながらも同程度に表現できるといえると思う。その段階は言葉の足し合わせの数だけある。ただし直接的に表現するにはネガティブな感情の方が良いだろう。このようにして出来た「言葉による表現」と実際に自分で表現することは別物である。今回はほとんど考えることはなかったがこちらはそれぞれ3段階ずつ程度ではないか。

終わりに

そもそも私がネガティブな考え方をしがちだからこのような回答になるのよな。ほかの人のも読んでみたいなと思った。このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった