アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

四面鏡

四面鏡とは何か。私は知らなかった。調べてみると鏡が4つつながっているものが出てきた。なるほど。1つ目の鏡に反射した4つ目の鏡の像によって、頭頂など普通の鏡では見れない部分を見るものらしい。これはなかなか面白い。合わせ鏡をひとつのセットにしたといったところか。使い慣れれば合わせ鏡よりも使い勝手はよさそうだ。最近私は『ヒトの眼、驚異の進化』という本を読んでいる。その中で視覚の拡張の話が少し出てきた。ここでは詳細は省くが、それは人間の持つ2つの眼の間隔を広げることで透視できる範囲を広げようというものだった。四面鏡による拡張とは種類が違うが、見える範囲を広げるという意味では同じとも言える。そういえば鏡を使った工作ででんじろう先生の著作にゴジラのメガネというものがあったと思う。これはまさに眼の間隔を広げるものであった。なんでも遠近感がより強くわかるようになるらしい。とにかく鏡を使えば視覚を拡張できる。これには間違いなさそうだ。四面鏡となると少し神秘的な響きを感じてしまうのは私だけだろうか。

さて、四面鏡について調べているときに1枚のワークシートを見つけた。小学生か中学生の道徳の授業に使うものだろうか。「私の四面鏡」というそのワークシートには「感性のシャープな」だとか「好奇心旺盛な」だとか人を形容する言葉が無数に書かれていて、その隣に私から見た私、aさんから見た私、bさんから見た私.......というように評価を書き入れる枠があった。なるほど。自分のことを他人から見た評価を書き込ませて、客観的な評価を知ろう。ついでに自己肯定感を上げるてやろうとそういう目的のものらしい。人は自分のことは低く評価しがちらしいからな。それにしても「私の四面鏡」とはなかなか適切な名前ではないか。他人からの視点というメスが入って、自分の違った側面が見えてくる。このことを考えてこの名前をつけたのだろう。

「中学を既に卒業した私には「私の四面鏡」をする機会がもうない」と思うだろうか。実は案外そんな機会は転がっているものだ。たとえばSNS特についった。たとえば友人たちで構成されたLINEグループでのリフレクション<これは稀かもしれないが>。自分のことを他人に表現してどう思われているかを知る機会なんてごまんとある。私の場合はついっただ。この前の記事に他人と比較しすぎるのは良くないと取れるようなことを書いたが、一概にまずいというわけではない。何事もバランスなのだ。何の手がかりもなく自分が優秀だと思い込み暴走する人を想像すれば、理解しがたいことはないだろう。

私にとっての「四面鏡」は主についったである。同世代で話したことがあり、すごい人のたまり場になってるHLABのコミュニティを使うこともあるが、最近ではごく稀である。ついったでは自分のつぶやきに他人がどう反応するかを楽しみながら見たり、時には分析したりする。そして不定期に自分のことをどう思うのかとストレートな質問をついーとしたりする。そんな中で私は自分がどんな人間なのか探っている。そのときの私のメンタルでつぶやきは変化するし、フォロワーさんも少しずつ変化する。でも変化するといっても限界がある。こうして自分のいろいろな面を長期にわたって観察しているのが私のついったなのだ。いうてついった歴はそんなに長くない。この使い方をはじめてからはまだ半年も経っていない。ついったで私のことを解釈する人はフォロワーさんの数だけいるわけだ。だから4面鏡というよりはn面鏡なのだがそれは置いておく。私はまだ自分を解釈しきれていない。ついったはそれを丸投げはしないけれど沢山の人に助けてもらう場所。それが私にとってのついったの意義のひとつだ。メモとしての使い方もしているが同時にこのような使い方もしている。もっとうまく使えたらなと思うが現状はそんな感じだ。

これを読んだ人もおそらくついったから来たのだろう<このブログに来る人の9割弱はついったから来る>。ついったは同じものを見て、いろいろな考え方ができることを実感できる場である。私のように四面鏡のように使っている人もいると知っているとまた違った見え方ができるかもしれない。人によってついったの使い方は違うのだろう。皆さんの使い方を私に教えてもらえると好奇心が満たされてうれしい。

終わりに

今回は四面鏡から私を別視点から見る方法に飛んで文を書いた。だんだんと書くのが早くなっている気がする。考えなくなっているのかもしれない。しっかりと考えながら文章を書く。その上で文章を書くスピードを上げていきたい。このサカナのオーナー、もりきよのついった