アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

ついったを20日間やめて感じた変化

はじめに

こんな要望をいただいた。ありがたい。書こうではないか。今回ついったをやめた経緯はいろいろあったけれど、端的にいうと「周りと比較するようになってしんどくなった」のと「1日の活動時間の大半をついったに費やす自分に嫌気が差した」ことだ。周りと比較したところで自分の力が上がるわけではないのにね。わかっていてもやめられなかったから、一度強制的にやめられるようにしたかった。それで、垢消しを実行した。リクエストではメリットとデメリットをそれぞれ10個ずつくらい書いて欲しいとのことだった。だが、読みやすさも考えて、ざっくりと5個くらいにまとめてみようと思う。さて、どんな変化があったのか見ていこう。

時間に余裕ができた

過去のスクリーンタイムを見ることができないから確証をもって断ずることができないが、ついったはかなりの時間を私から奪っていく。今日再開したのに今日のついった時間は4時間を越えていた。全盛期<?>では7時間くらいになっていたのではないか。実は時間を無駄にすること自体はさほど問題ではない。自分の価値なんてせいぜい1時間当たり2000円もいけばかなり良いほうなのだから。しかしこう考えたときに「高い買い物だな」とか罪悪感だとかを感じるならば避けたほうが良いのは言うまでもない。さて、昨日までの私はこの4時間をプログラミングの勉強や読書に当てていた。時間は各個に与えられた有限なものだから自分が気持ちいい使い方ができるほうがいい。ついったはその瞬間は気持ちいい。だけど離見するとそう錯覚させられているだけに過ぎないことに気がつく。後から考えると読書したほうがよほど有益なのだ。有限な時間をどう使っていくか。この気づきはついったをやめる前から言葉で知ってはいたが、実感するとその重要性がよくわかる。ついったの時間を削減することでより良い時間の使い方ができるならそちらに移行するべきだろう。

他人と比較することが減った

ついったはメモとして使える。私ははじめは主にその目的で使っていた。しかし周囲に「界隈」なるものができていることを知ると、そこで交流することになった。本来の使い方と違う使い方をはじめたのだ。後付な使い方をするとそこを使う理由はもろくなる。そこで私は自分の位置探しを始めた。自分はどういう人間だと周りから認識されているのか、世間的にどこら辺に位置するのかその答えを見つけるためについったを使い始めた。すると他人と比較する必要が出てくる。当たり前だ。自分の位置を知るには他人の位置を知って、相対的に求めるのが手っ取り早いからそうした。それだけ。だが、それが良くなかった。界隈は高IQ界隈という独特なもので、加えてスマホを使えば世界を手のひらに乗っけられる。当然私よりポテンシャルが高い人と出会うことになった。あまりに遠い人では比較しても仕方ないが、自分に近い人に対しては焦りや嫉み<嫉みです。妬みは基本感じない>も感じた。そんな自分に嫌になった。今は以前の記事に書いた「すべてのエキスパートになる必要はない」の精神でやんわりとやり過ごせるから良い。これがなかったら、ついったには帰ってこなかったかもしれない。この気付きが得られたのは、他人と比較することが少ない20日間を過ごしたからだ。

入ってくる情報の量が減った。しかし知識は増えたとおもう。

鮮度が大切な情報の代わりに、鮮度がさほど問題にならない知識が本から取り込めるようになった。うちにはテレビがあるが私も母もテレビが嫌いだ。ついったは情報の雑倉庫だ。宝庫ではない。というのも情報の精度がまちまちで、ごみくずのような情報がかなりの量混ざっているからだ。それらを追いかけて、しかも最新のものに追いつかなければいけないというのは苦しい。情報は鮮度が命。それが疲弊を生む。大切なものとそうでないものをきちんと見極めるのは案外精神力を使うものだ。ついったをやめることによってまとまった量の情報が一気に取り払われたのだから精神的に疲れにくくなったように感じた。その分の活力を別のことに生かせるのが良かった。私はこの余剰なエネルギーを読書に使った。いつもより早く読める。同じ文字数を追うなら、ついったより本<読むに値しない本は当然あるが>を読んだほうが後々ためになることが多いのではないか。友人と作業会・読書会という形で夜に通話しながら作業する習慣ができたのも、もとはついったをやめて友人と話すことをしたからだとおもう。この関係は今後も続けていこうと思う。ついったをやめるときは半ば自暴自棄だったが、今にしてみれば英断だったように思う。ありがたい。ブログのネタ探しには困るが、今後は以前と比べてついったの時間は少しずつ短縮していくことになるとおもう。

アウトプットが減った

ツイートすることはアウトプットに分類される作業のひとつである。その土台であるついったをやめればアウトプットする先をなくしてしまう。私はこれに陥った。思えばついったをやめる前、私はツイ廃予備軍だったように思う。ツイート分析ツールを使うと、途中に数年のブランクがあるためにツイ廃ではないと診断される。しかし、1日あたり平均100回以上ツイートしている人間がツイ廃予備軍でなくて何者と言おうか。そしてさらに悪いことに、私のアウトプット方法は非常に限定的だった。ツイートすること以外はこのブログくらいしか常用しているアウトプット法がなかったのだ。紙とペン、いや、声があればアウトプットできるではないか? 確かにそうだ。だがそれは私が普段やる方法ではない。不思議なことにやらされている感のあるアウトプットはやる気が失せてやらなくなるのに、やりたいときはできないことにフラストレーションを覚えるのである。ついったは短文章の集合だが、ブログは中長文章の個体としてアウトプットされる。性質の違いはあるが、私は一応アウトプット先としてはてブロを使うことができた。これがなければ今よりも精神的に病んでいただろう。どうやら私はブログよりついったに向いているらしい。そのことは私の文章が文章といえるほどまとまりを持っていないことからもわかると思う。

生活習慣がめちゃくちゃになった

ついったでは自分とある程度似た生活習慣を持つ人を見つけるのはそんなに苦ではない。そしてその人の生活リズムを参考に自分の生活リズムを作るということを、私はしていた。睡眠剤を飲む時間を調整すれば目が覚める時間も調整できる。目が覚めた後はついったをすれば自然と起き上がれるといった具合だ。ついったを消したときにこのチューナーがいなくなったのがきつかった。先述した友人との読書・作業会が夜に控えてるから、その時間はおきている。しかしそれ以外のところは何も埋まっていない。診察は2週に一度しかない上についったやめて数日後にあったばかりだった。1日の活動時間が睡眠時間と化した。作業する、読書するのは会の前後1~2時間くらい。そのほかはめちゃくちゃ。ロールモデルのない生活で自分がここまで堕落できることに驚いた。

終わりに

メモならばMytterで十分。ではなぜついったをやるのか。人から見られるプレッシャーとそこから生み出される「何か書かなきゃ感」だと思う。自分の思考、志向、嗜好が嫌でも発信される。というのは言い過ぎだろうか。自分のコンテンツを発信して、<あくまで自律的に>人間関係を愉しむ。そういう場が、コロナ等関係なしに自分には少ないように思う。そういう場所を求めてついったとはてブロに行き着いたのだ。これからも自分の生活を適度に改善しながら、この場を利用していきたいと思う。少なくとも作業中はついったに帰れないバリアを作ろう。そうしよう。

このサカナのオーナー、もりきよのついった