アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

初日からサボタージュ<・バー>。習慣を作る難しさ。[随筆]

昨日、毎日1本随筆を書こうと言った。普段なら原稿用紙に向き合い、改変や校正をしながらPCで再度打ち込む作業をする。だが今日はそれをしていない。スマホを両手で包んで前傾姿勢になりながらこの文章を作っている。何とか1本書けるだろうか。

 

さて、新しく習慣を作るにあたって考えてみたい。それは私の飽き性についてである。私の決起と挫折<長期のサボタージュと本人は言う>の例を挙げればきりがない。スピードキュービンク、ディジュリドゥアラビア語エスペラントetc……。今もプログラミング言語Rubyを一昨日から学んでいる。これもある程度のレベル<職業になるレベルではない>になればほっぽり出すだろう。私の飽き性は何に起因するのか。考えてみた。が、納得する答えはだせなかった。せいぜい遺伝だとか環境だとか。ちなみに私は双極性障害で、祖父と母もその気がある。遺伝率は3%だとか。嫌な系譜を継いでしまったものだ。躁鬱だから飽き性なのか、飽き性だから躁鬱なのか。考えてもわからない……。互いに関連しあっているのだろう。なんにせよこれらは納得のいく説明ではない。原因が探れないのは珍しい事例だ。普段なら屁理屈でもなんでも出てくるものなのに。どうにもこれは生来のものと言えるのかもしれない。かわいく言えばア・プリオリ

 

この場合考えられる話の進め方は2通りある。ひとつは今の状況を踏まえた上でこの先どう行動するのかに思いを巡らせること。もうひとつは超原因的なもの<環境、遺伝、ある種の神がそれに相当するだろう>に帰依して過ごすこと。普段私は後者に近いアプローチをとる。全部遺伝を含む環境のせいに<少なくとも頭のなかでは>して、それを知りながら逆らえないことを嘆くのである。前者のアプローチをとったらどうなるのか。考えてみよう。

 

この特性を前向きに見れば浅いが広い知識を得ることができるということだ。繰り返し習慣を作ればその度に新たな分野を知るか、知ってる分野を深く掘れる。高校時代に読んだ文章に「専門家は細部を見る。教養人は広く見る。どちらが良いという訳ではなく使い分ける必要がある。専門家は社会を推し進め、教養人は舵を切る」といったものがあった。この、「教養人」になるポテンシャルがあるのではないか。まあ、大学進学を「何が学びたいのかわからないのに、ローン<奨学金>を利用するのが怖い」と選択肢から外した臆病な私がなれるのかはわからない。しかし、努力<この言葉は苦手だ。私は今まで努力したことがないように思うから>する価値はあるのではないか。

 

常に新しいものを開拓するのは難しい。それと同様にひとつのものにくっつき続けるのも難しいと思う。人によるだろうが私にはとても大変なことだ。そして常に新しいものを追い求め続けようとする人にはそれなりの在り方があるだろうが、それにも私は至らないように思う。教養人としての幅広い知識をカバーしつつ、長い目で見た安定した発信力を持つこと、ルーティンワークに慣れることが私の将来の安定に繋がる。そうおもう。巷には継続力は何度も始める力だと言う人がいる。それもあるだろうが、ルーティンは1度やめてしまうと価値が無くなるものがある。これとそうでないものを見極め、苦しみながらも習慣を断絶させない訓練が必要だ。

 

そのきっかけとしてこのブログを使えたらなと思う。既に初日のサボタージュは回避出来た。サボタージュの否定。すなわちサボタージュ・バー。今後もお付き合いしていただければ幸いにござる。

 

###終わりに

ついったはおやすみちう。6月はじめに戻るつもり。

文章を書く代わりに日記を書くのを忘れた。