アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

ものものしてくるモノ。私の見る世界<視覚>。

以前の記事で「現実感が強くなってきたからぼやかした」というフレーズが登場した。覚えているだろうか。今回は私が見るモノを書いていこうと思う。といっても今私に見えている手とかについてではない。人と話していて、ああ、これは私特有のものなのかなと思ったものをぬきだして書く。現時点のものだから、今後増えることもあるかもしれない。識別するためにも絡んでくれるとうれしい。

ものものしてくるモノ

「現実感が強くなってきた」って言ったときは世界がものものしてきたとき。ものものする?なじみのある言葉ではないだろう。造語だから。

私は普段、モノをイメージとして捉えている。たとえば、私の右手近くにあるコップだったら、「灰色、縦長、猫のプリント、液体が入る、陶器、こすると高い音」のように。これらの要素を全部持っているのがこのコップなんだな。普段の生活をする分にはまったく問題ない。理解できているという意味で、そのコップは私の支配下にある。

ただ、一度モノを見つめはじめると大変。イメージがどんどん作られて、情報量が増えて、注意力を持っていかれる。これを私はものものすると表現している。そのうち、コップは原子<あるいは素粒子>でできていることに気がつくと、なぜコップがあるのがわからなくなって、急に怖くなる。怖いというのは、コップがイメージではなくて、目の前にコップそのものがあると認識せざるを得ない状況がだと思う。「ボクはここに在るんだよっ!」見たいな。そうなると、周りのものもいっせいに自分が在ることを主張してくる。<ここで薬が入る>。もはや情報量が多すぎてわけがわからない。けど、その場に私も存在しなきゃいけないという......。私に属していたはずの手や足も独自に存在を主張してくる。そうすると大抵パニックになってしまうので、散文的な音楽を聴いて、視線をおでこの裏側に向けるイメージで現実から逃避する。あとは薬<頭をぼんやりさせて不安を取るやつ>を飲んだり。

うまいたとえが思いつかないが、画面の中からいろいろなものが出てきたら同じような感覚になれるのではないかと思う。支配下から抜ける感じ。たぶんそう。

ところで、この感覚が生じたのはいつだったか。ものものしてくるのを体験したのは小学生高学年の頃、ペットボトルを投げてしまったこと。このときは、い○はすを飲んでいたのだが、不意にペットボトルを見たところ、ものものしてきたから投げて振り払った。モノをイメージとして捕らえることは中学年からやっていたのではないか。確かなことはいえないが。全部無機質な、役割を持ったもの。そんな考えが思いついたのは小3か小2の頃だったと記憶している。異性の体も所詮肉塊みたいな。そんな感覚だと思う。

ともかくとして、私と直接会ったことのある人は、やたら視線がきょろきょろしていたり、目が合わないなんてことに気がついてしまったかもしれない。要はそういうことなんだ。ものものするのを防ぐためにやってる。私は今でも、自分の手に焦点を5秒以上合わせることはできない。

虹色のアラベスク

みんな見えてるもんだと思っていた。飛蚊症みたいな感じに。網膜に移る細胞みたいなのは、私も見える。この話で盛り上がることもなくはない。しかし、「いつもピカピカした虹色の幾何学的な模様もフィルターみたいに見えるよね」なんていうと、場は水を打ったように静かになるのだった。イメージとしては、

↑こんな感じ。これがピカピカ、グネグネ動いている。正方形というよりもキュービッククーフィー体<アラビア語のフォントのひとつ>に近いのだが。目は細かい。サイケデリックですね。違法薬物はやったことはないのだけど、脳内麻薬というやつかしら。おほほ。眼科と精神科にかかるも「様子を見ましょう」だってさ。これも意識するとどんどん強くなる。額の裏を見ると少し落ち着くから、よい。目を瞑ったときに最もまぶしくなる。私のほかにこういうのが常時見えている人はいませんか。これは常時ついて回るもの。服を着ていてそれが肌にすれる感覚みたいなもの<それも私は嫌いだが>。そうわかっているからまだ、無視しようとできる。でもしんどい。病名とかあるのかしらね。

終わりに

今回は私の見る世界<視覚>をちらりと紹介しました。仲間がいると心強いなあ笑 こんなの見えてる人も、見えてない人もぜひ絡んでくださいな。

このサカナ<思想>のオーナーもりきよのついった