アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

逃走と歪んだ合理化、迷子迷子

今回の文章はほんとに迷子です。何かしらのメッセージを感じられたらそれはとても嬉しいことです。教えて下さい。こういう文章を書き続けてもいいのかを。

私は追い込まれると逃避行動に移りやすい性格らしいです。これは結構前から自覚していたけれど、面と向かって言われたのはだいたい5年くらい前、メンサン先生から「君は逃避傾向が強い」と言われたことが初めてでした。その現実を突きつけられる前からも自分と付き合っていく中でその傾向は強く感じていました。どこか遠くに逃げてしまいたいという思いが定期的に溢れてくるのが止まらないのです。

そして逃避の先に何があるかというと、しばらく逃げる必要のない環境なんですよね。それは多くの場合突拍子もないチャレンジという形で私の人生の一部になります。高2のときに出席日数が足りないところから留年してたくさんのイベントに参加したことも、TOEFLを受けて海外大学受験を目指して書類の作成を始めたのも現実の逃避が始まりでした。逃げた後は元いた環境のことなんて考えたくもないですから自由に挑戦できる気になってるんですよね。能力の有無は関係なく。最近もミネルバ大学受験という少し挑戦めいたものをして見事に玉砕したわけです。

久しぶりの玉砕でした。ええと、セルフ・ハンディキャッピングはやりすぎていて披露し続けるのが恥ずかしいのですが。正直受からないだろうなという気はしていました。試験中にGramarry使ったし、数学5分の4しか解けなかったし、実績のevidenceにかからない電話番号を記入しちゃったし<日本の国際番号81をつけるのを忘れていた>。セルフ・ハンディキャッピングと合理化は私を物理的に回避のできない惨劇から精神だけ救ってくれます。してもろくなことはなくて、現実を見れない人間が一層頑固になっていくだけなのですけど。惨めですね。それでもまあ、それも含めて実力です。久方ぶりに気持ちの良い負け方ができたなと思っています。

さて、何ヶ月もブログを放置していた私がなんでまた記事を書いているのか、気になりませんか?気になりませんか。そうですか。引き伸ばす理由はないので白状すると、実はまた自分と付き合うのが面倒で逃げているんです。やらなきゃいけないことは結構あります。毎日の仕事に通院、部屋の掃除や洗濯、障害者年金の申込み書類の作成などなど。社会的に自立しつつある私ですが生活力は皆無です。ずっとホテル暮らしして掃除とかも任せていたい。やりたいこと、やらなきゃいけないことの間のできるけどしんどいやつとか、将来のためにやっといたほうがいいことってありますよね。給付型奨学金への申込みや貯金、IELTSの申込みなんかがそれです。来年度の国内or海外大学受験のために将来のためにやらなきゃいけないことも結構あるんです。でもやっぱり頑張り続けるのは疲れちゃう。モチベーションも上がらない。それで逃げるわけです。

将来って響きが嫌ですよね。未来が関係する出来事で私が嬉しかったことなんて殆ど無いです。だいたいプレッシャーに潰されてしまうのですから。大学受験がいい例ですよね。19の誕生日前後の措置入院がいい例ですよね。毎日をただ通過するだけで、ただある程度の期間存在していただけで、自分の社会的位置づけが変化していくなんて恐ろしくてしょうがない。新成人オリエンテーションなんてなかっったですよね?みんなにはあったのでしょうか。私がハブられていただけなんでしょうか。怖い怖い。

私が文章を書くのはどこか才能があってほしいと願って、自分の感性で完成されていく文章を眺めるのが好きだからなんですよね。文章を打つときの私は少し頭の後ろの方に後退して、文章を勝手に生み出してくれる手指をぼんやりと眺めているんです。手に打たせているのをたまに「後ろにいる私」が修正する。ついーとは大体私が書いてますけど、こういった長い文章は私と指との対話の記録でもあるんです。手に宿る意識なんて自動化されたポンコツ知能しか持たないから駄文が増えていくわけです。普段使わない敬体を今使っているのも今日の手の気分によります。解離性障害かもねと武将には言われています。このブログのこと話したことないのに。

きっと私は受験も終わって次のステップに移る前に少しでも楽しいことをしようと思って、現実から逃げているんでしょうね。最近の行動にそれが見て取れます。HelloTalkという言語交換するアプリで色んな人とチャットしたり、Duolingoで中国語したり、本を買って読んだり、絵を描く練習を思いつきで始めてみたり。どこからこのエネルギーが来るのかはわかりませんが疲れるまではやってみようと思うのです。気分の上がり下がり、障害と呼ばれるレベルでもこれは私の一部なのですから。薬は最近毎週増えています。それに負けじと気分も上がっています。さあ、崖の上から飛んでみよーなんて気分になるのも時間の問題でしょう。そうなる前に正気に戻るといいのですが、最後に正気だった瞬間を私は覚えていません。

今日読んだ本にロジカルに物事を伝えるためにはメッセージのやり取り、コミュニケーションが必要なことが書いてありました。メッセージは課題<テーマ>、答え、期待される反応が揃ってこそ伝わりやすいものになるのだそうです。私のこの文章は何者なんでしょうか。誰に書いているのかすらわからないし、段落同士の関係性も河原の石積みのように危なげで到底論理的ではないでしょう。なんだか不思議な気分です。今日は指がよく喋る。こうして自分の内面を理解していろいろな人にそれを公開して、いつか良き理解者ができるのを非常に間接的ながら望んでいるのかもしれません。

自分を愛せるようになるには時間がかかりそうだから、他人に愛をささやくことから始めましょうかね。そうすればちぐはぐながらも理解者<仮>ができるかもしれない。本当に愛することができるなら良いのですが、愛というものを取り扱うのには私はきっと臆病です。何たる裏切り。これが私を寂しくするんです。

私ってば中途半端人間、脱皮できるか

私は中途半端人間。いろんなことに手を出すも、ある程度のレベルに至る前に飽きてやめてしまう。結果としてやっていない人よりはできるけど、ちゃんとやっている人と比較するととても見劣りする人間が完成する。飽き性。躁鬱人間。器用貧乏。色々な言い方があるけれど「ひとつのことに夢中になるわけでもなく、かといって広い分野に精通するわけでもない中途半端な人間」であることには間違いはない。

一般的にルービックキューブと言われるパズル。私はそれを30秒もあれば解くことができる。平均的な人と比べるとそれは早いように思われるかもしれない。しかし、競技としてパズルを解くスピードキューバーは大抵1ヶ月も練習すれば20秒は切ってくる。私のそれは経験者とも未経験者とも言えない初級者レベルだ。お勉強。学校でスコア化されるその競技では偏差値60ちょいの学校で2位を取るくらいの成績を収めた。しかし、受験勉強には向いていなかった、というか色々おかしくなって無かったから大学には入らずにグループホーム生活保護を受けてなんとも微妙な生活を送っている。結局上には上がいるし、大学進学のための勉強という意味では私は落伍者だったのだろう。

ひとつのことに夢中になったことはないのかとたまに問われる。ほとんどない。ではその夢中になったことは何かと問われると「ゲームをインストールしたはじめの24時間」など超一過性のマイブーム的なものにとどまってしまう。生産性などない。ほとんど受動的なものだ。

私が新しいものに触れるときの流れはこうだ。躁状態や睡眠不足で気分が変に上がっているときになにか面白そうなものを知覚する。それはついったーから得られる場合もあるし、なにか頭の中で考えて遊んでいたらやりたくなってきたという場合もある。それを躁な私はブレーキをかけずにやり始める。新しい分野だからはじめは楽しい。夢中になる。しかしある程度やっていると最高にハイな状態から下がってきて疲れを感じ始める。休憩といった形で一度そのコンテンツから離れる。そして長い間戻らない。その間にはじめに身に付けたスキルはパーになる。大体こんな有様だ。

上のような経過をたどるものはまだマシと言える。大体の場合は先人の凄さに圧倒されて、比較してしまい、はじめからやる気を失ってしまう。要は概要だけ調べて手を出さないのだ。私は生来競争好きな性格らしい。負けるのが嫌いなのだと思う。オリジナルでは勝ち負けがないものであっても、スコアかなんかで比較できてしまうと怖気づいていしまい、手を出せない。

自分の限界を知るのが怖いというか、競って負けるのが嫌なんだと思う。そんな面倒な性格が狭く浅い知識・経験を持つ私を生んでしまった。このままが嫌ならそろそろ舵を切るときだ。

今からなにか、まだ知らない対象のマニアになるのにはどうしたらいいのか。それも意図的にハマるのではなくて、本当に没頭できるレベルでハマるには......。正攻法としてはたくさんのものに触れて、より深く体験することだと思う。それと同時に「好きだ」と言えるような感性・センスを育み、好きなものを増やしていくべきだろう。また、素直に人の通った道をフォローするのが近道だとも思う。

ただ、結局は私はどのような人間になりたいのかという問に答えられるようにするのが大切なのだと思う。趣味を作らなくてはならないというなんともピントのぼやけた目標<?>ではなく、なりたい自分像から逆算して趣味等を獲得するべきなのではないか。そうしないと結局得るのはガラクタのような趣味のコレクションで、なんの足しにもなりはしない。なりたい自分像にはまるピースを探すように趣味探しができたらと思う。

それでは、なりたい自分像とは.......?正直自分でもわからない。考えてみると思春期にアイデンティティを獲得しそこねたような感覚になることがある。みんなは「好きなこと」や「将来設計」をしっかりと持っていて、それらを組み合わせたモチベーションで大学を選んだり、アイデンティティの確立ができているように見えるのだ。その中で私はただ周りに流されていただけだった。私の話すネタは過去の経験の話だったり、ニュースの受け売りだったり。そこに私はいなくて、空気のような間を埋める話題提供機としての自分がいるだけだった。

結果としてアイデンティティが迷子のイタいハタチができているのだが、捉え方によっては案外悪くないかもしれない。今から情熱を持ったものをアイデンティティにできるから。今から意図的に無理なくキャラクターを組み直せば、まだなれるものの幅は広いはずだ。過去に囚われずに未来に向かって進め。

絶賛迷子中のアイデンティティを考える上でなんとなく「おもろい」という感覚は大事にしていきたいと思っている。何かを見たときに「おもろい」と思える感性を育てたいし、自分自身が「おもろい」と思ってもらえるような人間に何となくなりたいと思っている。そのためには自分の知見を広げていろいろなものを関連付けて考える能力が必要だし、ユーモアも必要だ。とりあえずしばらくはおもろい人を目指して生活してみようかなと思う。

話がこじれた。アウトラインを始めに書かないとこうなる。次からはきちんとまとまった文章を書くように気をつけるから許してね。

Vtuberに興味が出てきた。おもろそうだ。やってみようかな。

久しぶり。リハビリ的文章。n回目

今週のお題「大人になったなと感じるとき」これにも関係あるかもしれない。お酒を飲んだ。

こんなタイトルをつけた文章が並んでばかりだ、私のブログは。毎日更新する週間が付けばいいのだがなかなかうまくいかない。継続って難しい。#もりきよ日記についてもそうだ。ブログの縮小版にしようとしてスマホの画面1枚分の日記を始めたのはいいものの、結局更新できないでいる。文字数が約1000文字だから、ブログよりもずっと更新しやすい<ブログは普通に書いていると3000字ほどになる>。文字数制限がすぐに訪れるために、ゴリゴリのダイエットをした文章を書くことになる。謎解きをしたような少しの爽快感。案外楽しい。

いま私はブログ更新のためにTyporaというアプリに向かって文章を打ち込んでいる。感じるのは文章を無限に打っていいという自由と、その可能性。それから支えを失ったかのようなちょっとした不安だ。普段文章を書くときには内容をある程度練って書く。今は思ったことを思ったままに書いているからだろうか、とっちらかった文章を書いているのだなと自分でもわかる。それをうまくコントロールしたいとは思うのだが、頭がろくに働かない。紙に書きたいことを書き出して一度整理するのが良いと知っていても、それを行動に移すのは煩わしいというか。気だるくてできない。やりたくない。そんな感じ。

こんな汚い文章を人様に見せるのは正直気がひけるのだが、これも私の一部だと思えばいいのかなと思う。きれいでスパッとした文章を書く私もいればこんがらがった醜い文章を書く私もいるのだ。ついったで他己紹介してもらったときに「思考のはたらきが澄んでいたり濁っていたり、大変そう」と言われたことがある。今の私は濁っているのだろう。頭から、感覚からスラリとした文章を引き抜かんとすれども、長く縮れたラーメンのような文章が生まれゆく。頑張って無駄を省こうとする頭の働きは外野にいて、結局文章の校正をできずにいる。そんな感じ。

こんな感覚になるのも珍しい。数日前に酒の味を知ったからなのか、体がアルコホールを求めているのかなって思う。軽く首を絞めたかのように頭に血がのぼる感覚が忘れられない。ふと入院中に出会った女の子の影を見た。彼女は病んでる感じの女の子だった。入院中は結構長い時間を彼女と過ごしたものだった。彼女は薬をそれはそれは楽しそうに飲んだ。とても印象に残っている。薬を飲むとなぜか目の下にクマができるからひと目で薬を飲んでいるか否かがわかる。薬を飲んだあとのふわふわとした話し方で彼女は「もりきよ~、まっすぐあるけない~、たのし~」なんて言うもんだから面白い。酒を飲んだあとの足元のおぼつかない感じが彼女のイメージに重なったのだと思う。

さて、お酒だ。ウィキペディアで検索したら抗不安薬のところにエタノールと出てきた。確かにあのふあふあ感は癖になるし、一時的には不安も解消されるだろう。2日しか飲んでいないのに、もう飲みたい。お医者さんと「人付き合いの一杯なら飲んでいい。二杯目以降は烏龍茶」という約束を交わしてしまった。うう、お酒飲みたい。20歳になってまだ3日、酒を飲み始めて3日でこれである。恐るべきお酒の魔力。友人らしき知人に「もりきよはアル中になる素質あるよ」と言われたけれど、まさにそのとおり。本来ならお酒を飲むつもりさえなかったのだ。武将には「薬とお酒の飲み合わせは最悪」とまで言われているし、誕生日も買うだけで満足するつもりだった。「認知機能が最も良い20歳の頃に酒を飲むなんて馬鹿だよね」なんて言っていたのは果たして私だったのか。もうお酒のことばっかりを考えている私とはもう違う次元に住んでいる気がしてならない。

酒、酒、酒。旨い酒というやつも飲んでみたいし、いろいろな酒を飲んでみたいと思う。人付き合いの中でしか飲めないなら、酒好きのトモダチを作るしか無いなとも。酒が先行して友達付き合いはその手段みたいになっているところももう、人としてどうなの?という感じである。もっと言ってしまえば、「ツイキャスは人付き合いに入りますか?」なんてついったでアンケートを取っている時点でアウトである。おちつきなさい、私。あぁ、お酒飲みたい。

なんでここまでお酒が飲みたいのだろう。おとなになりたいのかもしれない。小さい頃から見てきた大人なんていなくて、精神年齢幼いままでここまで育ってきてしまった自分がいる。諦めることはきらいだし、何かに迎合するのも好きではない。それでもお酒のせいにすれば、馬鹿になれる。酒に飲まれてしまえば、一時的に自分から離れられる。もともと、離人感は強い方だったけど、お酒はそのサポートもしてくれるから。飲む。飲まれてしまう。吐血してでも飲む。なんだかちょっと悲しいね。なにかに諦めたり、習慣に飲み込まれて同じような毎日を過ごすのが大人なら、お酒はきっと私を大人にしてくれるから。

私が自信を持って友達って言える人って実は「少ない」んじゃなくて「いない」。ネッ友は知人よりちょっと仲がいいくらいの関係。自分から友達っていうのは気が引けるし、手のひら返されたときのことを考えてしまうと自分から拒絶してしまう。だから皆に無償の愛は与えるけど、特定の人に対して好意をもつことはあるけど、自分で決めた一線は越えられない。人を好きになるのにも臆病。弱虫なんだなと最近気がついた。そんな私を見守ってくれていた友達、希死念慮ちゃん。ずっと一緒だったし、辛いときには優しく介抱してくれた。そこに新しくアルコホールちゃん。おさけちゃんでもいいか。仲良くしてくれそうだ。お薬は乱用しないように約束させられたから、プラトニックな関係なんだよね。このみっつのお友達、パートナーとこれからの人生は歩んでいくんだね。たばこは.......どうなんだろうね。

ひさびさ。リハビリ的文章。

前回の更新が11月の17日。毎日書きたいなぁと言っておきながら結構長いあいだ放置してしまった。理由はいくつかある。まず、丁寧な文章を書こうと思いすぎてしまったこと。前日に書き出したネタを改めて考え直してみると、ぜんぜん違う意見になり文章が破綻してした、なんてことを5回位やった。私にとっては文章は心象のスケッチ。鮮度が命。一度に書ききって変更点があればまたその都度更新すればいい。慎重さも大事だけど吐き出せることは吐き出したいものだ。次に忙しくなったこと。母校で実習アシスタントとして採用された。これで私は週4日朝から夕方まで働くことになった。そして、平日の休み1日は午後からサポートティチャーがあるから、結局毎日登校することになる。週5日学校に通うのだ。満員電車でもみくちゃにされて、お家についた頃には疲れているというわけだ。また、学生団体に入って、ミーティングを夜遅くまでやることも増えてきた。私はマルチタスキングが苦手だ。特に、人と話しながら文章を書くのが絶望的に下手くそだ。そんなものだから今までの文章を夜に書くというサイクルは崩れ、そのままズルズルと時間だけが経っていった。

とまあ、理由をあげればいくつも出てくる。しかし、一番インパクトが大きかったのはとある友人からの「もう少し意見を寝かせてから発信しろよ」という言葉だった。どうやら私は思ったことを深く考えずそのまま発信しているように思われていたらしい。そして、それは彼にとって軽率な行為に写っているらしかった。確かに私は深く考えることから逃げて、解釈なしの情報の状態で文章を発信していたように思う。文章を読み終わったあとに「え?だからなんなの」聞かれてしまうアレだ。普段の私なら「それが私のスタイルなんじゃい」と開き直ることもできただろうが、いつもより抑うつ的な気分だった手前悩んでしまった。それがこの3週間ほどのブランクだ。文章を書くのが下手になったと思うし、実に時間を無駄にしたなと今なら思う。

今、私はこうして再び文章を書くことにした。人に発信したいことが沢山あるわけではない。ただ、自分がどう感じたのかを残しておきたいなと思ったのだ。私の文章は稚拙だし、意見もぼやっとしていてわかりにくい。わかりにくい意見を紐解いてみると矛盾が引き出されるなんてことも少なくない。それでも私は文章を書くことが好きだ。時間を忘れて没頭できる。だからこそ続けようと思える。私は物事に継続的に取り組むのが苦手だ。その中でも文章を書くということは珍しくも続けられることのひとつだ。夜に書けないというなら朝、20分ほど早く起きて書けばいい。そんな調子で再び文章を書くことを楽しんでいけたらと思う。友人はなにかに熱中できて周りを気にせずに好きなことをできる状態が最高と言っていた。彼はものづくりにその楽しさを見出したようだが、文章を書くのに見いだすのも悪くはないだろう。他人のためでなく、自分のために「人に伝わる文章を書く」これが最高なのではないか。これから先、少しずつ意見は変わるかもしれないが、今はこれを根幹にやっていこうと思う。

眠剤を飲み忘れたメルヘンチックな夢が残る頭でこの文章を書いた。これから先、学生団体の広報・総務としての活動が増えていく。もりきよとしてではなく、中の人として文章を書く機会が増えてくるわけだ。そこではどのような反応を得られるのだろう。今から楽しみだ。今後、更新は夕方もしくは朝のこの時間になります。宜しくお願いします。出勤せな!!

このサカナ<思想>のオーナー。もりきよのついった。餌<コメント、いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。

電話嫌いの電話3本。おもろいつながりは黒い板切れから

電話嫌いをこじらせて何年目かの晩秋。対面で話すのは初対面の人とでも大好き。知っている人との電話は嫌じゃない。ただ、スマホが大きな音とともにブルブル震え始めて、どんな声が出るともわからない相手に応答しなくてはいけない瞬間、あれは嫌だ。それでも、未知の相手との会話は未知の情報との繋がりになるかもしれない。そしてその情報は私を豊かにしてくれるかもしれない。そんなことを考えさせれられた電話が3本あった。今日はその3本の電話について書いていこうと思う。

1本目 1円奨学金の合格通

電話はいつも突然にかかってくる。知らない番号だった。そも、私が覚えている番号は自分のものを除くと母校の電話番号と東大和市役所の電話番号だけだーーどちらもよく使うし特徴があって覚えやすい。朝だった。甘くとろけるような眠気が支配する緩やかな時間が一変、私の心拍数は大きく上昇した。未知との遭遇。緊迫感。その日に来そうな宅急便には心当たりがない。ましてや知らない番号から連絡を受ける機会などなおさらだ。私は一度でも連絡した人間は電話帳としてスマホに名前を覚えさせる。だから、知らない番号からかかってくる機会は限られている。

おそるおそる画面のボタンをスライドして応答する。7コールくらい待たせてしまっただろうか。「おはようございます。大変お待たせしました。森です」一息で言い切った。挨拶は基本中の基本。電話でも一緒。それに対して相手の開口一番。「おはようございます。新造真人です。おめでとうございます。1円奨学金の合格通知です」。ぴたり、と。時間が止まるような感覚に陥った。人生でも経験する数が少ないであろう努力が結ばれる感覚。そう、あれだ。応答前の緊張で上がっていた心拍数が更に上がる。頭の中は既に数々の結びつかないはずだった情報を整理するのにいっぱいいっぱいで、言葉を紡ぐ余裕なんて残っていなかった。数拍あけてなんとか言葉をつなげる。「本当ですか......うれしい.......」

1円奨学金とは現代アーティストの新造真人さんが今年の秋に創設した奨学金だ。支給額は毎月1円。返済義務は、ない。毎月振込み料金がかからないLINE Payで支払われる。奨学金応募に対するハードルを限りなく下げること、奨学生に選ばれるという自信・愉快な志を持った他者との接触を促すこと。それから「1円ってww。やっすwwwwww!!」と思った人に対して個人奨学金の創設を促すという目的を持って創設された。私自身奨学金をいずれ作りたいと思っていたことと、面白そうだなという直感で申し込んだ。申し込んだと言っても当日の夜に思い立って数時間かけて文章を作成しただけだ。文章の質は私に言わせれば、まあ、ひどかった。話は散り散りだし、最後の5分で取って付けたような結論を書くような文章。あまりにもひどいと思いながらも、申し込むだけ申し込もうと思っていたから羞恥心を殺して提出した。これがひとつ。選ばれないと思っていた理由だ。

選ばれないと思っていた理由は他にもある。1円奨学金の選考は2段階に分けていると言われていた。書類審査とzoom会議による面接だ。本合格の通知は11月7日を予定していたから、6日までに面接をしていなければ合格するはずがなかった。なんの連絡がなく終わったその日の晩、私は少し悔しくなった。受かるとは思っていなくても落ちたら悲しいのだなぁと感じたのを覚えている。そして数日経っても音沙汰がない。ああ、落ちたんだなと納得していた。そう、あの電話がかかってくるまでは。

結局、どういうことだったのか。真人さんによると予想以上に審査に時間がかかったらしい。応募は25名。きっとそれぞれの文章や作品を読むのにかなりの時間を費やしたということだろう。そしてその関係からzoomの面接は取りやめることにしたと。連絡が遅れたのも審査に時間がかかったかららしい。なんてハラハラさせる運営だろう。私は新たなコミュニティに属することができる喜びを感じながらも、真人さんの人となりが気になった。ついったで調べればすぐにでてくる。TEDで話していたり、名刺がスタイリッシュだったり。人生を楽しみながら生きているのだなと感じた。最近はコーラを作っているらしい。今度飲んでみようかしら。

そんなわけで新しく私の肩書に「新造真人奨学金第1期奨学生」というものが加わった。年額12円の儲け。とは言え私は選考用の文章に3時間近くを費やした。金銭だけで言ったら損だ。もっと言おう。私は生活保護の受給者であるために毎月収入報告を書かなくてはいけない。普通に勤労で得た収入なら時給とか交通費とかを書くだけだからわかりやすい。ただ、オンラインのお金で1円って......。正直扱いに困る。しかし書かないと調査とでバレたときが面倒くさい。不正受給ということで受給資格を剥奪されてしまうかもしれないのだ。なんだかババ抜きでジョーカーを引いたような感覚。ゲームはおもしろくなるけれど、ちょっと扱いに困る。この手間分を超えるような恩恵をこのコミュニティから得られればよいのだが。それは私の努力次第なのかもしれない。なんにせよ面白くなりそうだ。

2本目 Newtakのzoom会議

学生団体Newtakというものに入った。参加者は大体高校生で「本質を捉える力を身につけ、やりたいことに全力を注げる世界」の実現に向けて動いている。そのためにバーチャルの世界も使えるようにするとかしないとか.......。今の時点では決まっていないことも多い。これから新しいものを作っていくのだという面白さを胸に、突き進んでいく。そういった団体なのだろう。高校生というのもあるし、果敢に挑戦していくのは良い経験になると思う。私もそのような経験が今からできること、すごい高校生たちと関わることができることで気分が上がっている。

この間zoomによる会議があった。以前からSlackとかLINEで報告を受けたりはしていたけれど、所詮相手は文字とニックネームだけの存在。質量・熱量を持って会話をすることは難しい。アノニマスな人と話していた。それがzoom会議で秘密のベールが剥がされた。画面に映されたのは全国いろいろな地域の仲間。それぞれの声のトーンやイントネーション、話題のセレクト。みんなが実際に目の前で話しているようだった。オンラインでここまで繋がれるのだなと思ってテクノロジーの凄さに改めて脱帽した。そして、その話し手達もものすごい。

代表の布川拓人は奨学金を獲得して現在イギリスに留学中。他の学生団体の代表もやっているようだ。志望校はケンブリッジだとか。ユーモアがあって、勉強だけでなくて運動もできるという。そして社交的。なんておもしろい人なんだろう。他にもいろいろな学生団体と連携してイベントを主催する高校2年生がいたり、ボランティアで聞いたことのないような国に<私の勉強不足かもしれないが>外来種駆除をした人がいたり。そうそうたるメンバーで始まったという感じだ。聞いてみるともともとはWEINという団体からNewtakに移ってきた人が多いのだとか。きっとそこにもおもしろい高校生が沢山いるのだろう。学生でも高校生でもない私としては少しだけアウェー感。それでもこれから1つのものを作っていく仲間なのだ。楽しくやっていきたい。

会議では雑談もすれば、教育に関する議論も多く展開される。.......私は教育に興味があると言いつつあまり関連する書籍は読んでいない。わからないことだらけだから、自然と質問を多くすることになる。疑問を投げかけることもあれば、あえて対立するような意見を言って議論を深めることを試みたりすることもある。自分がこのコミュニティにどのように貢献できるのか。それは自分の経験にもとづくちょっと変わった価値観の提供と、質問していく能力なのではないかと思う。精一杯頑張りたい。

挑戦するという意味でもこの団体はおもしろいが、ここで出会える高校生たちは面白い人が多い。そも、高校生にして学生団体があるということを知っていて参加しようとしているのだから、私が今までよく関わったきた高校生と比較してエネルギッシュに感じる。どんな人がいるのかわからない状態で飛び込んだ団体だったからどんな人が出てくるかわからなかった。けれど大当たりを引いた感じがする。ピア・ラーニングとでも言うのだろうか。同世代の面白い人との交流の中から生じる化学反応も含まれた学習の体系を作りたいと思った。

3本目 TwiCallでつながって.......

TwiCallというサービスを知っているだろうか。簡単に説明するとついったのアカウントを使って通話できるサービスだ。利用の流れは、ついったのアカウントを登録する→TLに募集ついーとを流す→作業等をしながら誰かが来るのを待つ→通話するというものだ。簡単に使える上に貧弱WiFiでも通信制限下でもそこそこ快適に使える。普通の電話はいつかかってくるのか、そもそもかかってくるのかさえわからないことが多い。TwiCallはかかってくる可能性があるとあらかじめ心構えができる。けれど、誰が来るのかはわからない。そんな未知の人との遭遇に期待をのせて利用してみた。

今までの利用で4人の人と通話した。マッチング率がどのくらいなのかは知らないが、かなりの高確率で誰かが来てくれる。会話の内容・相手は実に様々。ベトナムに住む中学生であったり、フランスからの帰国子女だったり、ついったの相互の人だったり。絡みはあるけど声を聞くのは初めて、なんて人もいた。内容も勉強の話、大学進学の話、麻雀、政治、近々行われる文化祭の話など多岐にわたる。自分の知らなかった世界を知れてとても面白い。リアルでこのような人たちと話そうとしてもそもそも接点がないだろう。

TwiCallは知らなかった人同士をつなげ、今ある繋がりを更に強固にすることに一役買いそうだ。誰と繋がるかわからないのは少し怖いが、話してみると皆おもしろい。人はその数だけ独自の経験をする。それを数十分の会話で共有したりする。私は最近寂しさを感じていて、それを埋める目的もあって<ほとんどは好奇心から>利用しはじめた。あとから知ったことだが、TwiCallを出会い系として使う人も一定数いるそうだ。私はグループホーム世話人さんに寂しさを感じていると告白した。パートナーとかが作れると良いねとのことだった。たしかに。出会いが少ないこの時勢と私の生活圏では割と有効な出会いのツールなのかもしれない。

散財ばかりして知人と洋服購入デート<?>することができなくなってしまった。お金の使い方と生活リズムの改善は私のなかで結構大きな課題になっている。その先にあるのはのっぺりとした平凡な毎日なのかもしれない。読書、学びに加えてついったとTwiCall。これらが日常にアクセントを与えてくれるのかなと思った。最初に私は電話が苦手だと言ったが、それは匿名のいきなりかかってくる電話に対する苦手意識に過ぎないのだなと思った。心構えさえできてしまえば、声で話すほうが楽だしたのしい。自分の得意なこと、好きなことに少しずつ気づけて嬉しい。TwiCallはこれからも利用するのでよろしければぜひお話しましょ。


楽しい電話、嬉しい電話、予想外な電話。これらはスマホを通して展開された。未知と繋がる機会には案外簡単に作れる。それに気付くにはまずトライすることなのだと思った。このサカナ<思想>のオーナー、もりきよのついった。餌<コメント・いいね>がほしい。サカナたちが喜ぶ。

雑感。ポッキーの日に考えたこと。

雑感でも書くのが大事なのです。毎日続けるぞ~!!英文日記もね。

Kindleの限度額達成!!嬉しくないぞ

先月買ったkindleは私の読書体験を大きく変化させた。すっと取り出せるデバイスに沢山の書籍を入れられる。そして、洋書を読んでいるときにわからなかった単語はすぐに調べて単語帳に登録することができる。紙の書籍に比べて行きたいページへのアクセス性では劣るものの、読書を身近なものにするのには十分に役に立っている。紙で読むのに抵抗なんて無いと思っていたけれど、実際には書籍を取り出すこと、過去にどこまで読んだか思い出すことに若干の抵抗を感じていたようだ。電子書籍だとその点がスマートに解決される。つまり、すっと取り出して空き時間に本を読める→読む回数、時間が増えるからどこまで読んだか思い出すのが億劫にならない。というわけだ。

と、そんな感じでKindleは私の読書体験にはなくてはならないものになった。しかし、ここ数日で本が買えなくなった。致命的なダメージだ。読みたい時にすぐさま本を買って、読み始められるのがKindleの良いところのひとつだったのに。これではただの書棚を持ち歩いているのと変わらない。すごいのには変わりないのだが、利便性が大きく損なわれた感がある。買った本を読むだけで新しい本を買うことができない。現時点で手を出せていない本は約12冊。月末まで持つかと言われると心細い。それよりも、私は本に関しては浮気性。常に新しい本を買って開拓しながら既に手に入れている本にも手を付けていくのが好きなのだ。そのサイクルを止められてしまった。

原因はわかっている。月初めに2万円を超える量の漫画をまとめ買いしたツケが回ってきたのだ。どういうことかと言うと、Kindleの支払い方法にauのかんたん決済を利用している為に月額の限度額が設けられている。それに引っかかったのだ。先月は2万円強の本を買えたから今月も.......と思っていたのだがそうは問屋がおろさなかった。先月分の支払いをまだできていない私には社会的信用は無い。限度額は半額の1万円にされ、漫画のまとめ買いはキャンセル。そして新しい本を買うこともできない。そういう制裁が加わったのだった。ぐえぇ。Kindle unlimitedはまだ使えるのだろうか。使えないと困る。新しい本と家で出会えなくなる。Unlimitedの本を早いところ読み終えて、借りられるか試してみる必要があるな。Unlimitedの本は結構限られたものしかないからテンションはだだ下がり。それでも無いよりはまだマシだ。

順調なお仕事

Kindleの購入は先月やって大成功したことのひとつだが、先月始めた仕事も少しずつ成果が上がってきている。母校に勉強を教えに行くサポートティーチャー。テスト前は利用する生徒も多い。しかし、いったんテストが終わってしまうと閑古鳥も喉を枯らすくらい人が来ない。サポートティーチャーとしてただ稼ぐ分にはそれで全く問題ない。歩合制でなくて時給制であるから人が来ようとこまいと関係ないのだ。人が来ないほうが本を読んだり作業をしたりできるから、お金のためだけに働くならそれがベストなんだろう。

でも、私はそういう状況が好きではない。給料が出るのに働いていない自分。現状に甘えてなんにも変化を起こさない自分......。楽しく仕事をする分には良いけど、そもそも求められた仕事ができていないのが嫌だった。ひとりも来ないと「給料泥棒」なんて言われても仕方がないわけで.......。使えるものは使っていくというスタンスで行こうと決めたのが今年の9月。でも、「生徒に勉強を教える仕事」を「なんもしないでもお金がもらえる謎時間」として解釈するのは嫌だ。やるならしっかりと。そのほうが成長できて、楽しくて誇れる生き方だと思う。

そんな思いから持ち場のゼミ室を同僚に任せて、教室を回るようになった。人が来ない部屋でただ何もしないでお金をもらうよりは少しでも行動できたらと思ったのだ。教室で喋っている生徒に話しかけて雑談する。進路の話をすることもあればちょっとマニアックな主義・主張について話すこともある。直接的に勉強を教えるわけではないけど、一応サポートティーチャーというものがあるという宣伝はする。雑談の中で勉強の話が出ればその場で解決orゼミ室に待機する同僚にパスして解決。そんなことを繰り返しているうちにゼミ室に定期的に雑談しに来てくれる人が数人できた。

嬉しかった。確かに雑談すること自体は勉強を教えるという本来の目的とは違うものだけど、気軽に部屋に来てくれることでテスト前等にも来やすくなるかもしれない。自分のやっていることが認められたようで心のなかでガッツポーズした。同僚からすれば「意識高い系」だったり「持ち場を離れてフラフラするよくわからん奴」なのかもしれないが、私が自分で認められることだから大事にしようと思う。雑談から勉強の話までできる変なやつと思われるのは嬉しい。後輩の話を聞くのはおもしろいから。これからも後輩と関係を作って、良い仕事ができたらなと思う。

ちと不安定なメンタル、金遣いのあらさ、対策.......

秋です。それももう暮れです。日照時間が少なくなります。抑うつ的な気分になりやすくなります。そんな話を書いたのが前回。今も寂しい気持ちはそのままだ。メンタルが不安定になる。そしてそれを抑えるのに有効なのが睡眠をきちんと確保すること。.......それは理解しているのだが実行はできていない。ああ、人間って不条理。だっておもしろい高校生と話せるんだもの。最近加入した学生団体<私は学生ではない>では交流会が行われている。zoomでおしゃべり。それがこんなにもおもしろいものだとは思わなかった。グループホームWiFiはとても弱いからテザリングをして毎回参加する。もう残り3GBです。きっついなと思いながらもおもしろいからやめられない。やっぱり人肌恋しくなる季節。人との会話に飢えているのかもしれない。

その人肌恋しさをどこかで勘違いしたのかエッチなアイテムに1万円ほど課金した。アネロス。今朝届いた。今思えばなんでこれを買ったのかなんてよくわからない。人肌恋しさ→性欲→エッチなアイテムとこういうことだろうか。それにしても1万円は使いすぎでは.......。ちょっと引いてる私がいる。まあ、明日は休日なので思う存分使わせてもらおうかしらね。ドライは一発では無理だと思うけど、前立腺の快感はわかりたいという欲がある。どうなることやら.......。それにしてもなんでアネロスを買ったのやら。まあ、もう、届いて開封したのだから何も言うまい。あとは使うだけだ。

それで、結局寂しさが解決するのかと言ったら使ってみるまでよくわからない。Youtubeの音声とかはかえって寂しさを増長するだけだというのは過去の経験から知っている。やはりカギとなるのは睡眠。それからどのくらい充実した1日を過ごせるかではないか。母校で実験のアシスタントの方が病に伏して休養中らしい。そして私にアシスタントをやってみないかというオファーが非公式ながら、来た。これに応募し採用されれば平日は毎日仕事ができる。金銭的なメリットは生活保護の控除額を超えてしまうから殆ど無いけれど、習慣化やメンタルの安定を図る意味では良いかもしれない。まずは主治医と相談かな。

英語できていない不安とあせり

英語使って受験しようとしているのにほとんど英語の勉強ができていない。洋書をKindleで読むくらいでリスニングもライティングも、ましてやスピーキングの勉強はまったくできていない。まずい、まずいぞと頭のなかで繰り返すものの、全く実感に落ちてこない。ひじょーにまずい。まずは受け取る量を増やすことだよね!ということで今日からNYTimesの購読を始めます。1日3記事以上読む。それからポッドキャストを1日1回以上聞くようにします。あとはライティング。英文日記を始めようかな。急激な変化、無理は続かないと言うけれどこれくらいやらないと必要な英語力はつかないと思う。急に不安になってきて急に初めて急にやめるのが私の常だけど、今回は継続したいものですな。受験は、近い。東方やってる場合じゃない!!


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とってもさみしい。

ひとりでも満たされていると思っていた。充実した日常を過ごしていると思っていた。けれど最近は寂しさで心が折れそうだ。数週間前の満たされたという実感はいったい何処へ。寂しさをに気がついてからは涙を流すこと抜きには眠れなくなった。ただ寂しい。もしかしたら季節のせいかもしれない。毎年この季節は抑うつ的な状態になりやすい。今年はそれが寂しさとして出てきているのかもしれない。

いままで何度も書いているように私は双極性感情障害持ちだ。いわゆる躁うつ病。薬で感情の波をおとなしくさせてはいるけれど結局人間だから多少の波は残る。そしてそのリズムはあまり変わらない。春に下がり、夏にあがる。秋の暮れに下がってくる。冬の終わりに少しあがる。もっと細かく見ることもできるのだけど、季節で区切るとおおよそこんな感じ。薬による治療を始めたのは今年の春からだが波のリズムの変化はあまり感じない。要するに今は下がり気味だということだ。例年通り精神の不安定さを感じる。

先日のブログでは自分の精神科での診断書<情報提供書>を3枚書き写して公開した。そこでは幼少期の境遇から愛着に障害があるおそれがあるという文言が多く見られた。自分で調べたけれどよくわからなかった。幼少期のネグレクトだったり家庭環境の大きな変化の多さで愛着の形成がうまくいかなかったと判断されたらしい。愛着とはおむつを換えてもらう等の生理的欲求に周りが応えることを繰り返すことで形成される関係のことだ。愛着障害の症状としてはうまく人に甘えられない・頼れないとか、逆に人見知りをせずに誰にでも抱きついてしまうというものがあるそうだ。うーん。私はどちらかと言えば前者かなぁ。その他にも精神疾患を抱えやすく、長引かせやすいであったりとか、安定した人間関係の構築が苦手な傾向があるという。

この途方も無い寂しさにあてられて私は少し実験をした。それは自分が無意識的に作る心の壁を取り除こうとするものだった。心を開くとは自己開示<自分のプライベートな情報を公開すること>だと考えたのだ。私は他者と関係を維持するのがうまくない。それは相手が私と仲良くしてくれるという状況であっても、自分でその状況を飲み込めずにかえって距離をとってしまったりすることに起因する。その時に形成される心の壁を取り除いたらどうなるのかと考えたのだ。実験の中では自分のなかで隠していることなんてなにもないと言えるくらいぶっちゃけた話をも公開した。それこそ逆恨みを買いそうなことすらも。しかし、結局は自己開示は他人を信用することそのものではないことに気がついた。

気づいてしまえば当たり前なのだが、自己開示するからと言って信頼が伴っているかと言うとそうとは言えない。そう、言うなればミラーリングに少しにている。ミラーリングは好意を持っている相手の動作を無意識のうちに真似てしまうこと、または逆に真似ている人に好意を無意識に持ってしまう現象だ。私は前者の話をしようと思う。ミラーリングは好意を持っていると自動的に出るが、そうでなくても意図的に相手のマネをしようとすればできるだろう。好意の伴わないミラーリングもあるということだ。これはカウンセラーとかがあからさまに使っていたりする。これと同様に自己開示も心の壁を取り払わなくても技術としてできてしまう。ああ、気付かなければ「私は自己開示できているから心を開けてる。皆大好き!!」なんて思えたのだろうか。

自己開示が心を開くことに必ずしもつながらないとわかっても、心を開くとはどういうものなのかわからないままだ。相手を自分や周囲の人間に危害を加えられる状況に置いた時にそれを実行しないと信じる気持ちだろうか。特定の人を他の人間と比べて特別扱いすることがいまいちできない。いわば皆に心を開きながらも、皆に心を閉ざしている状態なのだ、私は。誰かが私にだけ相談事をしてくれたりしたらそこに信頼関係を築けるのかもしれない。私が話せる内容はすべてついったに載っけてしまった。相互で信頼できる関係になるには誰かが私を信頼してくれているのを実感する必要があるように感じる。それがきっと「恋人」のような関係になるのだと思う。

いま、恋人がほしいか。答えはイエスである。恋人というものがいまいちわかっていないことは否めないが、あまりにも寂しすぎる。寂しさから乱れた関係になっていくのは健全とは言い難いがそれでも良いのだと開き直りたくなるくらいには寂しい。頭の中を真っ白にしてくれるような経験を求めているのかもしれない。何もかもを忘れてそれに没頭できるような、性的倒錯した関係。きっとそんなものを求めているのだなと思う。寂しい、寂しい。アネロスを買うことから始めようか.......?

私は他者と共有できる記憶が少ない。引っ越しが多くて幼馴染と言える存在がいないのもそうだが、私が経験してきたことを経験したことのある人はとても少ない。だからこそ私はここでそうするように体験談や考えたことを書き残し孤独感を紛らわせようとしているのかもしれない。

生保受給者で障害者だから恋人を作るなんて夢を見てないで現実を見ろという意見もありそうだ。わかる。とてもわかる。私にもこれらを自分のアイデンティティにしたくないという思いはある。でもどうしようもなく寂しいのだ。助けてくれ。

ほぼ誰にでも自分に関する情報や過去、悩みを話すし他人を画一的に信頼する事ができる。その反面自分の感覚には鈍感で本音で話せなくなってしまったり逆に本音で話すあまり傷つけてしまったり.......。そんな私を信頼し、愛してくれる人はいないかな。私、寂しいです。


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