アイツんなかのアクアリウム

「ふつう」の青年の頭の中を駆け巡っているサカナたち。そのスケッチ

満足の行く生活を求めて。雑感

なにかものすごい出来事があったわけでもない。平凡な日常を過ごしている中で、「自分の満足のいく生活ができればいいな」と考えるようになった。そしてその満足というものもそんなに敷居が高いものではなくて、すぐ目の前にあって手が届きそうだということにも気がついた。私の求める満足.......。一言で言い表すのは難しいけれど、年収230万レベルの生活と勉強、それからワクワクするプロジェクトに関わりたい。こんなところだろうか。年収230万レベルの生活というのは最近の私の生活がそうだからこの金額にしているだけで、医療費等を含めたらもう少し高い水準になるのかもしれない。でもそんなものだ。贅沢がしたいわけではない。

生活は今の水準で困っていない。食事は質素だけどたまに安い飲食店で外食もできる。家具家電もおおかた揃っていて、6畳くらいの部屋に本棚がずらり。生活に困ることはあんまりない。それからWiFiも使えていて、ブログを書いて投稿したり動画を見ることもできる。これ以上何を望むのか。少し高い財布?うーん、ちょっと欲しいかも。まあ、将来のことを考えれば貯金するのが賢明だろう。これも月に買う本の量をセーブすれば1万円から2万円位は貯金できると思う。今は本当に満たされている。

勉強というのは毎月本を買って新しいことを学ぶこと。これが今の私の娯楽だ。今月からKindleを使って紙の書籍より安く様々なほんを読んでいる。Kindleはスリムでちょっとした時間も無駄にせずに活用できる。アクティブな時間と休んでいる時間のメリハリをきちんとさせるためにも役立っている。本で読んだことを日常で行動に移してみたり、ついったでアウトプットしてみたり。毎日実験しながら楽しんでいる。本の内容に呑まれる感覚になることが無いといえば嘘になるが、最近は能動的に本を読めるようになってきていると思う。嬉しい変化だ。これが続くか、もっと沢山読んで勉強し、行動に移せたらと思う。体系的に学問を学べているわけではないのが少し残念。読書の幅を広げていこう。

勉強という点ではまだ欲はある。大学に行きたい。大学を出て就職を有利に.......という思惑があるわけではなく、純粋に大学で数年間学ぶだけの時間がほしいと思う。生活保護を受けている今の状況でどうやって苦学生をやらないで大学生をやれるのだろうか。ここで出てくるのが先の記事に書いたミネルバ大学と欧州の大学だ。ミネルバは学べる内容と後述するワクワクするプロジェクトに関われるチャンスが増えること等から最高の選択肢のひとつになっているが、単純な能力的に入れるかどうかわからない。どれくらいレベルの高い学校で勉強する資格<能力>が私にあるのだろうか。きちんと見定める必要はある。

今日読んでいた『教え学ぶ技術』のサンプルエッセイの論理展開を見て「これがオックスフォードの求めるレベルのエッセイか」と度肝を抜かされた。論理に隙がないし広範な範囲の文章をうまくまとめ上げて引用も適切に使っている。これだけの実力が今の私にあるかと言われたら、無いとしか言いようがない。まあ、本の著者がオックスフォードで教鞭を取っていただけで、オックスフォードがそんな生徒を望んでいるのかは詳しく知らないのだが。でも、私の能力が世界レベルで通用すると思っているほど自分の能力を過信してはいない。2年後欧州の大学に入るのがオチなのかな~なんて思っている。米国はリベラルアーツで有名だが欧州にもあるのかな。学費はいくらなのかな。来年はしっかり調べなくては。

ワクワクするプロジェクトに関わりたいというのは私のちょっとしたワガママだ。ワクワクするプロジェクトを実行している人は使命感にかられて全力で問題解決に向き合っている。例えば村木。彼は二酸化炭素を回収するロボットを作って売る会社を作った。そして今日、新しいプロジェクトのクラウドファンディングを始めた。本当にエネルギッシュですごい。本当は私も何かしらのスキルを持っていて、「私も一緒にやりたい」と言えるのが理想なのだが、自分の能力不足を痛感しているからその一言が言い出せない。実際、手伝えることはほとんど無いだろう。悔しい。こういうプロジェクトに積極的に関わって毎日をワクワクしながら過ごせたら良いなと思うのだ。そのためには少しづつできることを積み重ねていくしか無いのかなと思う。

リターンとかを考えずに、生活費から浮いた分を面白いプロジェクトに投資するのは私にとっては良いアイデアだと思う。でも、それだけだと物足りない。やるからには一緒になって挑戦を楽しみたいと思う。私はきっと大学を卒業しても学びの機会を求めると思う。卒業後に使える学びのプラットフォームづくりをしたいな。皆が参加できるような、意見の交換会のような。それから、教育、地域振興。この2つは高校時代に参加したイベントのテーマだった。今でもこれらの分野に対する見方は変わっていない。どちらも面白い可能性を秘めていて、困難はあるだろうけど楽しそうだ。私は誰のために貢献する感覚が好きだ。そして未知のことに挑戦するのもワクワクする。こういうことを仕事にできたら良いなと思う。はは、遊び感覚で仕事したい。

昨日、グループホーム世話人さんと話したときに「日中寝るくらいなら作業所行く?」と言われた。作業所。どんな作業をするのか気になって訊くと、段ボール箱の組み立てや大学受験用のヘッドセットのイヤーピースの交換などがあると言われた。ザ、作業。作業所とはいっても少しは頭を使う仕事が回ってくるのかと思っていた。それで雇用契約は結ばないから時給200円とか。絶対行きたくない。障害者雇用枠を紹介してくれる機関があるらしいのだが、そこはガチの就職向けらしい。うむむむむ。やっぱり大学通いたいな。少なくとも色々な選択肢を増やして見聞を広げるための4年間はあっても良いのかなと思った。つらたん。


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# 今の生活も別のものに変わる。それも案外すぐに

物事は常に変化している。一見全く動きを見せないようなものでも、ゆっくりと動いているだけでゆっくり変化している。今日はそんなことを考えた。

きっかけは今日読んでいた松浦弥太郎の『考え方のコツ』という本だ。松浦は考える時間を持つことの重要性を説いたり、感謝の言葉を100回1日に言うように書いたりしている。受け入れられる部分もあればいかがわしい部分もある。これは読み手である私の意見との齟齬からくるものだから、きちんと後で明文化して消化しようと思っている。良いと思ったところは試してみて、そうでないところは「ふーん。そういう考えもあるのね」と放っておけば良いのだ。時期が来れば考え方が変化することもあるかもしれない。

本の中で目の前のことに集中することの重要性について書かれていた。彼の今の仕事は「こういうことがしたい」と夢見てたどり着いたものではないと言う。この文を見たときに、言われてみれば私もそうだなと思ったのだ。毎日を丁寧に過ごして流れに身を任せたから今の生活があるのだという主張には共感できる。彼がそうなのかは知らないが、私は気まぐれでいきあたりばったり的な生き方をしている。気づいたら今日この場所にいた。そんな感じ。先について想像を巡らせるより流れに身を任せていたほうがうまくいくと松浦は言うが、ひねくれた私は私を取り巻く環境から少し先の生活がどんなものになっているだろうかと考えてみることにした。

私は今の生活に概ね満足している。こう言っては「向上心のないやつだな」と思われそうだ。そうではない。私にも向上心はある......と思う。今は生活保護を受けていて、国に支えてもらっての生活だから完全なものではないかもしれない。ただ、文化水準としては今のレベルくらいでも質素ながらやっていけると思っている。ブログを書いて、ついったをして、本を読んで。家事等で生活を回しながらも少しづつ勉強できている。本を買いすぎると月末辛くなるが案外なんとかなっている。私自身勉強しながらも、母校で勉強を教える。最初はお給料目当てで応募した仕事だったけれど、母校に貢献していると思うと嬉しい。責任感を持ってこれからも勤めようと思う。

今の生活が一般の生活のどのくらいのレベルかも考えてみた。今住んでいるグループホームは家賃6.5万円。全額東京都からの補助金生活保護で賄われている。それから生活扶助が88,080円<障害者だから普通より1万円ほど高い>。だからもらっているお金を手取りで考えると大体15万円くらい。一般的な仕事でいうと年収230万円くらいの水準になるらしい。来月からは母校での仕事の給料が入るので月当たりもう2万円くらい増える予定だ<未成年控除を使っているから1万円ほど成人の方より控除額が高い>。少しづつ貯金しなくてはと思うけれどできずにいる。でもある程度満足の行く生活。生活保護を受けているから医療券の利用もできるしね。ゆたかな暮らしをしていると思う。

とはいえこの生活は長くは続かないだろう。私がいるグループホームは通過型と呼ばれるもので基本的には2年間、最大でも3年間しかいられない。そうなるとおそらく私は仕事に就かなくてはならなくなる。そして生活保護を受けているものの義務として、生活保護を抜けるための努力もしなくてはならない。くう。困った。

そんな状況下私はグループホームを出たら大学に入ろうかなと思っている。え?話がつながっていない?そんなこともないのよ。実は<当然かも知れないが>大学に入りながら生活保護を受けることはできない。「勉強するくらいなら働け」というやつだ。高校進学も実は危うかったらしい。高校在学中もバイトをしてはどうかとか色々言われていた。基本的に私のような立場にいる人間が大学に行くのは社会人になってからが多くなる<ごく少数派だとは思うが>。私もその方向で頑張ってくださいと担当のケースワーカーさんに言われている笑。なんでもケースワーカーさんも苦学生だったそうで私のことを応援しているとのことだった。ありがたい。学費国公立でもトータルで250万円くらい。それに生活費と通学費とも考えないといけない。結構険しい道程だ。

ただ、これは日本の大学ならばの話だ。私にはラッキーなことがいくつもある。ひとつは今年からチェコに留学している友人を持っていたこと。彼の言うことをすべて鵜呑みにする訳でもないが、欧州には学費が年間30万円くらいのところがゴロゴロあるらしい。寮費も月2万ほどだとか。海外に行くほうが安く済むことがあるということだ。選択肢を広げられるのはありがたい。次に成績が4.7/5.0でまあまあ良かったことと、研究という少し変わった授業のある高校で学び、生徒会長を務めるなどの課外活動も行っていたこと。これは海外大の奨学金を得たりエッセイライティングをするときに有利に働く。ここでも少しお金を節約しておきたい。そして何がきっかけかは思い出せないが、ミネルバ大学の在校生の話を聞く機会が先日あったこと。ミネルバ大学といえば近年になってその独特の形式から話題になっている。ミネルバ大学は知識を蓄えることよりも、その知識をどう使うかという教育に力を入れている。最高にワクワクする。通いたい。そしてneed-blindの奨学金がある。これは選考に家の経済状況を加味しませんよということであり、経済的な困窮がある学生に対しては奨学金を必要に応じてあげますよということ。アプライしてみる価値はあるのではないか。

とはいえ私自身受かる自信があるわけではない。ミネルバは東大に受かった知人でも落ちるような大学なんだ。高校在学中は海外大の受験なんてほとんど考えていなかったから、課外活動で何を成し遂げたのかとか聞かれると答えに詰まるし、成績も狙ってあげてたわけではなかったからもう少し上げられたと思っている。「こんな生半可な覚悟で海外大受験とかww」って言われても全然おかしくないレベルなのだ。いやね、そりゃレベルを下げれば受かるかもしれないけどそういうもんでもないでしょうと。授業の内容とレベルはきちんと確保しておきたい。これは欧州の大学に行くときも同様だ。大学進学は高いお買い物なのだ。

そんなわけで私は2カ年プランを作った。まだ草案だけど発表しちゃいます。ででん。1年目、今年。ミネルバ受けます。余裕があればWatanabe奨学金に申し込みます。2年目、来年。ミネルバめげずにもう一度受けます。そして欧州の大学調べて英語で授業を受けられる経済的に優しい大学にアプライします。このとき余裕があれば米国大探すかもだけど、望みは薄い。TOEFLかIELTSの受験も数回できたらいいな。なんて考えているわけです。ぬるい考えでしょ?そしてなんとこの2カ年計画グループホームの期間にも割とあっているという。冬にアプライして最悪の事態<行きたい大学見つからない>に備えて就職活動。となるわけです。

就職かぁ。私はどうにも職という字には弱いのです。今と将来の間にはなにか断絶があると心のなかでまだ信じているみたい。どこにあるのか、わからないけど「何かが劇的に変わる瞬間」を夢見ていると言うか。母校で働いているのにね。じっくり考えて好きなことで生活回していけたら良いなぁ。この問題を先延ばしするべく私は大学を目指すのです。

万が一<合格率的には100が1>受かったらおめでとって言ってくれ。それだけで頑張れる<浅い>。なんなら学費カンパしてくれ<皮算用が過ぎる>。


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夢、ゆめ、ユメ、夢うつつ。

いやー、寒い。手がかじかんで、遅いタイピングがますます遅くなる。昨晩のくすりを飲み忘れた影響もあるのかな、手が震えてうまく打てない。誤字が増えるかも。かんにんね。

今日は1日ずっと夢を見ていた。夜のくすりを飲み忘れたときにありがちな行動として、次の日まで飲まないでそのまま過ごしてしまうというのがある。すると当然眠れない。浅い眠りに落ちて夢を見るのにも数時間かかる。今日なんて寒かったからなおさらだ。ガタガタ震えながら頭の中に流れる英文を読んでみたり、奇妙な状況下で英語を話すシミュレーションを始めたりする。終いには英語と日本語、エスペラントがごっちゃになって、頭の中が混沌とする。ヌトっとしてとらえどころのない状態になって、どうしようももなくなる。夢だったのかもしれない。これが朝5時位。その後は日が出て暖かくなるにつれて幻想的で不可思議な色とりどりの夢を見た。面白いものだから何度も寝直して夢を見直す。少しづつ変化する奇妙な夢は記憶に残らない。それでも一時の面白おかしさを求めて眠り続けた。夢を見続けるものだから脳は当然休まっていないだろう。まさに睡眠剤を抜いた次の日と言った感じ。そうして私は布団の上に20時間くらい横たわり続けた。

夢というのは不思議なもので現実との境がうまく隠されている。夢の中で「夢かな?」と疑い始めると、途端に現実のような気がしてくる。ものの輪郭ははっきりして、話している内容は色濃く伝わってくるんだ。そしてあまりにも情報量が多くなって、これはどうも現実らしいと思い始めると今度は輪郭がぼやけて色彩豊かになる。現と夢とを行ったり来たり。脳のリズムにあわせて私も踊る。結局はくすりがないこと、睡眠が足りないことが見せる一瞬の鮮やかさ。これに操られる私は無力な傍観者。夢の中でそれが夢であることに気がついたとしてもなんにもならない。汽車に乗っているのか電車に乗っているのかがわかるだけ。行き先なんてわからなくて今どこにいるかも結局の所わからない。

「今日は朝の来訪が早い」なんて冗談めかして言っていたのは朝の6時。朝の来る希望とかって言葉遊びを始めたのが朝5時半。時間が逆戻りした。今日はなんてリアルな夢を見ているのだろう。木材とプラスチックと鋼鉄と。まぜこぜにしていたのはきっと夢。夢の気分が抜けないで、タイピングしている私は現実だ。

夢の中って刺激が少ない。あふれるイメージと流れる言葉に溺れるけれど、それらはすべすべなめらかでどぷんどぷんと私を埋める。藁にすがろうにもそんなに固いものは持ち込めないみたい。ただ上に、ただ下に。流されて、流されて。頭になにか引っかかるような言葉が出てきたら、きっとそれは現実に傾き始めるサイン。仕事、ついった、ゴミ掃除。これらは私を上に引っ張る。さぼてん、なないろ、さるーとん。これらは私を深みに埋める。たのしい。たのしいね。こうして言葉を並べている私。ゆめかうつつかわからない。

きっとうつつのなかで、夢が濃いところを探しているのね。


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冬。活動量が減っていく。

日付けだけ見るとまだ秋なのだが、今年は寒暖の差が激しくて寒い日は本当に寒い。エアコンを使うか迷うレベルだ<グループホームでストーブや火の仕様は禁止されている>。机上の温度計付きの電波時計は役に立たない。いつも20℃以上を示している。実際の気温は確実に下がっていて窓際で作業する手先や足先は冷たくなる。深夜となればなおさらだ。今は高校時代のジャージを着て震えながら文章を打っている。この震えが薬によるものなのか寒さのものなのかを私は知らない。きっと両方なのだと思う。

毎年この時期になると気分が少し落ち込んでくる。1年間の中で起きる気分のサイクルがそうさせるのだと思う。毎年春に落ち込み、それを乗り切ると活動的になる。それがこの時期になると落ち着いて、やや鬱々とした気分になってくる。冬は嫌いではないし、むしろ好きだ。頭や体が冷えるのは気持ちがいいし、鬱々とするからなのか、ものを考えている気分になれる。ただ、活動が徐々に少なくなっていき寝込みがちになるは良いことではないかもしれない。今年はこれの対応策として母校での仕事を入れているが、うまく働いてくれるだろうか。毎年同じことを繰り返す私ではない。

この症状は気分の落ち込みではなく活動量が減っていくことから始まる。活動量が減るのがきっかけなのか、食事がなにかをきっかけに減ることで活動量が減っていくのかはわからない。ここ数日で食事の量はぐっと減っているし、活動量も仕事が急遽休みになったために減っている。もしかしたらこの両方の条件に当てはまるときに気分が鬱々としてくるのかもしれない。

活動しないで寝込みがちになるとブログに書くことが思いつかなくなっていく。書くということは呼吸をするようなもので情報のインプットがあってこそ成り立つ。インプットする情報が減ると文章を書くのも難しくなっていく。過去にインプットした内容をこねくり回したり考えなおすことで記事を書くことはできるが、新しい見方であったり情報を提供する事ができなくて書き手としてはなんだか残念な気持ちになる。実は冬は活動量が減るかわりに感覚が少し過敏になる。これが私が冬が好きな理由だ。普段は気付かないことに気付けるし、それについて考えを巡らせることができる。ただ、最近は寝てばかりいて頭も動かしていないから本当になにも出来ていない。認知能力が最大になる20代を前にして何をしているのだろうか。もう少し勉強したいものだ。

いまは夜3時。深夜に悠長に文章を書けているのは今日が土曜日だからだ。なにかしたわけでも明日なにかあるわけでもない。この時間の感覚が私を深い夜に導いてくれる。今日は勉強もしなかったな。少しKindleで本を読んだくらいだ。小説。他人の作り出す文章がそこに詰まっているかと思うとゾクゾクする。ビジネス書なんかの文は同じようなものになりがちだけど、小説は違う。展開の仕方や表情が書き手によってぜんぜん変わる。それらを完璧に読み取れるなどという慢心はしていないが、英語と中国語を聞き分けるくらいの程度でなら読み取れる。面白いものは取り入れたいなと思いながらいつも読んでいる。

今は特に書くこともないけれど、キーボードを叩いている。今日書きたかったことはせいぜいが「冬って気分が落ち込みがちなんだよね」ってことくらいだ。それでも書くのはどうしてか。文章を書くことのリハビリをしたいからだ。毎日文章を書かないときれいな文を書く感覚を忘れそうになる。やたらと受動態が入ったり代名詞が増えたり。このミスを減らすように気をつけようと毎回思っているものの1日でも間隔が開くとミスは増える。文章は毎日書きたい。1日の終りに思っていることを吐き出すとスッキリするし、「おやすみ」としてしまうときも30分くらいは時間を取っては感じたことを吐き出したらどうかなと思う。1日の気づきをまとめる意味でも面白そうだ。読者には迷惑かもしれないが、あらかじめことわってそうする分には構わないだろう。そうしよう。


30分で考えたこと。散文注意

では書いていこうか。そもそも30分で何かを考えてそれを文章におこそうという行動は生産的なのかわからないな。タイピングゲームみたいだなと思う。構成を作れないと支離滅裂な文章が生まれることには間違いがない。今年のはじめに作った500の命題くらい意味のない行動になってしまいそうな気がしている。何を書くにしてもテーマはあらかじめ決めておいたほうが良いのかな。ここで書くのはブログより崩れていて、でもついったよりはかしこまっているそんな文章が良い。

それじゃあ、最近の生活について書いていこうか。これはブログの記事にするには物足りなくて書かなかった内容だ。最近生活圏がどんどん狭くなってきている。生活に慣れてきたのもあるのか必要最低限のところしか行かない。買い物も1度まとめて買ったらその後5日は行かなくて良いように食生活を変えたのもあって、自発的に外に出ることが減ってしまった。

朝食と昼食は全く外に出ないということを防ぐために未然に「ラジオ体操→コンビニでチョコレートバーの購入」をルール化していたけれど、台風が近づいて来るときの雨でラジオ体操はだめになった。そして、低気圧で朝が遅くなったのをこじらせて再度夜型の生活に逆戻り。今に至ると言った感じ。もうすぐ4時だ。深夜型の生活。何をするわけでもない。ブログを書きながら、「あーあ、シャワー浴びなきゃな」とか、「洗濯物を干すのを忘れてた」だの考えたりするだけだ。勉強しなさい、私。

この深夜型の生活を許されているのは今週だけだ。今週はテスト週間だそうで、サポートティーチャーはお休みになった。そのせいもあって、生活リズムを崩すことが出来ている。いつもなら月水金に13時50分くらいには家を出なければならないという制限があるが、今週は無い。いつまでも寝ることができるわけだ。季節の変わり目、上に書いたような気分の変化もあって日中活動はほとんどできなくなっている。深夜に活動することがそれを助長する。深夜に活動すればその分日中活動できなくなるのは当たり前だな。ある程度の時間効く強い睡眠剤を飲んでいるのだから。

深夜型の生活リズムを脱するために何ができるか考えると結局は薬を飲む時間を固定することに行き着く。私の生活はすでに薬様の言う通りになっている。少し前までは薬をコントロールできている気になっていたが今はてんでダメ。眠剤を抜くことで生活リズムを調整しようとしてももう以前ほどはうまく行かなくなっている。眠剤を抜いたその次の日にイライラ感が出たりアカシジアが出たりするのだ。少しだけショック。武将に「薬を飲んだら別人になるような気がして怖いんです」なんて言っていたもりきよはもういなくて、薬に頼りっきりのもりきよがいるだけだ。

ただ、やるべきことがわかっているなら話が早い。それを実行すればいい。しかし今の私はできていない。なんでか?今日できなかった仕事を明日に持ち越すのが怖いからだ。今日できなかったことを明日に持ち越してできるのかが不安でしょうがない。変なところで臆病なのだなと思う。今日も22時10分の薬タイマーを無視して今文章を書いているわけで、漠然とした不安感が私を眠りから遠ざけている。眠剤を飲んでしまえばあとは寝るだけなのに、そして目覚める時間は大体わかっているというのに「明日、もしおきれなかったら」なんてかんがえたりして、明日本当に起きれなくなる時間まで起きてしまうのだ。

雨でも朝きちんと起きれる方法を考えないといけないね。何ができるかなぁ。散歩?良いね。でもどこに行くの?川。遠いよ。駅、スーパー。朝の早い時間には開いていないし意味が見いだせない。なにか良いところがないかなぁ。雨の日の目覚め方。最近の悩みです。これさえ決まれば日常を回していけるに違いない。

時間だ。ではこれで。


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友人にコーチングしてもらった。考える場を設けたいなって話。

よく話す友人がコーチングを最近勉強している。人生の中で持っていても良いスキルだと判断したそうだ。私はコーチングにはあまり詳しくないのだが「答えは相手の中にある」ということを基本に質問したり考えることを促すことで解決策を考えるスキルらしい。彼女はコーチングの本をいくつか読んで、少しわかった気がするから私で実験したいと言ってきた。おもしろい。なにか解決したい問題とか悩んでいることを考えておくように言われ、その日のトークは終わった。

後日、通話で実際にコーチングをしてもらうことになった。お題は「最近物事を考えられなくなっていることについて」だ。私は要点をノートにメモすることくらいしかやっていないから、コーチングがどんなふうに進んだかを書くことができない。しかし、コーチングを受けることで現状に対する考え方が変わったのも事実だ。今回はコーチングを通して何を考えたのかを書いてみたい。

そもそも「最近物事を考えられなくなっていることについて」って漠然とし過ぎだと思う。これを最初に分解した。私の言う物事を考えられないというのは2種類あった。ひとつは直感的な判断に流されがちだというものだ。今月のはじめに銀行からおろしたお金を即Kindleに使ってしまい、今金欠に苦しんでいるのがそれだ。もうひとつは自分の考え方を持ったり深めていくのではなく、本を読んでその内容をほぼ無批判にコピーして自分の主張としてしまうというのものだ。知人と話すときに「最近読んだ本によると〇〇って△△らしい」と言いがちになっている。自分は本と知人のミディアムになっている。テレビ石みたいだ。

ひとつめの問題についてはすぐに片付いた。それがなぜ起こるのか、どんなときに起こるのか、どうやって対処できるかを考えるように促されたのがきっかけだ。コーチの役割とはこういうものらしい。この問題は自分で情報を集めたり先のことを想定することを面倒臭がっていることから起こる。そしてそれは一時的にお金を持っているときであったり、大きな買い物を前にして希望的な観測をしているときの起こりやすい。月末のお金と今使うお金がつながっている感覚を持てていないことから月末の苦労を過小評価してしまうようだ。解決方法は月末と月初めの過ごし方を同じようにするというものだ。未来からの視点でものを考えるという方法もあるが、それは私には難しい。同じような過ごし方を心がけるほうが私にはあっているという結論に行き着いた。そしてそのためには毎月使えるお金を可視化すること、家計簿をつけることが有効だとわかった。

次の、本の内容をほとんど無批判に受け入れてしまって考えを深めることが出来ない問題は解決が難しい。解決案は漠然としがちで、すぐに実行できる実際的な案は殆ど出なかった。本を無批判に受け入れてしまうことの何が問題なのか。これはただ、自分の考えを持っておきたいという私の欲なのだと思う。自分の考えを言語化して、自分とそうでないものを分けていく作業が私は大好きだ。本を無批判に読むことで「自分」にグレーなものが入るのが嫌なのだと思う。グレーなものをきちんと考え抜いて受け止めるか拒絶するかの判断は自分でしたい。この作業を怠っているのが嫌なのだと思う。

本を自分の意見としないで単に考えるための材料として扱い、自分の考えを深めていくのに必要なのは議論することだと思う。私は書くことよりも話すことが好きだ。話すことの柔軟性であったりスピード感が良い。私は考えたことを発言すると言うよりは発言したことを考えて、積み重ねるように話す。昔の友人に粘土をこねるような話し方だと言われたことがある。それだけ柔軟性が高いということなのだろう。言っていて間違いだと思ったらすぐに訂正して別の視点から話を組み立て直すことができる。読んだ本の内容を紹介するだけでなくて、同じ知識を持っていて思考の化学反応を起こせるような関係を作りたい。議論のために読むときは自然と批判的に読むことができる。同じ本<同じテーマの本>を読んで意見交換する場を設けられたら良いなと思う。ひとりで書き言葉と話し言葉で議論ができないかと言われればそうではないのだが、他者の意見や客観性が入ったほうが身に入るし面白い。やはり議論の基本は対人なのだと思う。もし、私とこういう関係になりたいと言う方がいたらぜひ連絡してほしい。読書会しましょ。

こうは書いたものの私に連絡してくれる人は、まあ、いないだろう。ひとりで何ができるかを考える必要がある。私にとって一番身近な発信方法はついっただ。まずはついったで読んだ本の要約、感想をつぶやくことからだろうか。以前はやっていたけれど最近はできていない。Kindleで本を読むようになってから読書ノートをつけるのを忘れがちだ。取り戻したい。読書仲間をついったで作って、読書サークルのようなものを作れるのが理想だ。それに向けて今から動くのは面白いかもしれない。また、Facebookの存在も忘れずに使っていきたい。HLABのサマーキャンプをきっかけにアカウントを作ったは良いが、ほとんど運用できていない。読書仲間を増やし、自分の意見に磨きをかけるためにうまく使っていきたいものだ。Facebookについてはそもそも使い方もよくわかっていない。勉強しようと思う。

コーチングの中でよく訊かれたのは「仮にその問題が解決したとして、その後の生活はどのように変わると思うか」や、「解決するために明日からできることはなんだろう」という問いだ。解決後の生活を想像させてそこからヒントを得るように促したり、具体的な思考を促すための問いが重要ということなのだろう。確かに私は現実に即して物事を考えるのが得意ではない。それを見抜かれていたのかもしれない。以前参加したピアトゥピアコーチングのワークショップでも相手に想像させる問いが重要だと言われていた気がする。私も自分の考え方にバリエーションをもたせ、最適化させるためにコーチングを学んでも良いかもしれない。そんなふうに思った。


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Kindle生活を始めてみて。付き合い方を模索中

最近Amazon Kindleを私の読書に導入した。Amazonはそこそこ使っていたし本を読むのは好きだったから、遅かれ早かれこうなる気はしていた。ただ、想像していた読書体験と実際に経験するものとでは差がある。Kindleを使う前の期待とそれに対するパフォーマンス、その良い側面と悪い側面について書ければいいなと思う。Kindleはアプリだけでも使えるしPaperwhiteなんて買う必要はなかったのだが、集中の切らされない読書をしたくてデバイスも買った。実際は物欲に負けたというのが正直なところ笑。そこも含めてレビューしてみよう。

Kindleの使い心地はかなり良い。それは大きさとシンプルな操作性による。物理ボタンで操作できるOasisとPaperwhiteとでかなり迷ったのだが、Paperwhiteを買ってよかったと思う。物理ボタンなどなくてもページの切り替えは簡単にできる。買ってからまだ1週間経っていないけれど、既にアプリで1冊Paperwhiteで4冊ほど本を読んだ。大量の本を片手楽に持てるデバイスの中に入れてすぐに読み始められる利便性が良い。本体の大きさは想像より小さかった。新書より縦が1cmほど短くて横は1cmほど長い。普段持ち歩いている無印良品のA5サイズのポーチにすっと入る。電車の待ち時間とか、家で今何しているのかわからなくなったときにぱっと取り出して本を読める。これは無駄な時間を削るのにいい。読書に思考を侵食されるのは問題だが、その危険性をあれかじめ知っておいて本を読む分には良いだろう。考えたりボーッとする時間も意識的に取ることができれば問題ない。

Kindleを買って読書をするようになってから間を置かずにKindle Unlimitedに加入した。月額980円で色々な本を読むことができる。それも、即座に。ダウンロードに数分かかることはあるが、本屋に行って買うことと比べると時間の節約になる。既に定価1600円ほどの本を2冊、家でダウンロードして読んでいる。日常的に本を読むのならば単純な本の値段でも時間の使い方でも損をすることは無いだろう。ただ、本の取り揃えには結構ばらつきがある。私は読みたい本を見つけたときにGoogle Keepに作っているリストに追加している。Kindle Unlimitedに加入してまずしたのはそれらの本の検索だ。すべての本を検索したわけでは無いが検索した本はほぼKindle Unlimitedには対応していなかった。電子書籍化していないものも想像より多い。多く見積もってもKindleの対応率は30%、Unlimitedの対応率は数%だろう。Unlimitedに対応している本から検索をはじめて自分の読みたい本を探すという手法も取れるのだが、それは規模の小さな書店で自分の読みたい本を見つけられずに仕方なく似たような分野の別のを買うしかなくなる.......という状況に似ている。このとき私は自分の思考を狭められるような感覚に陥る。Unlimited本だけでなく有料の本もきちんと読むように心がけたい。

電子書籍には上記のように携帯性であったりとか欲しい本が即座に手に入るという利便性がある。でもそれを知ってなお色褪せないアナログの本の良さがある。それは前後の参照のしやすさ、書き込みができること、本との出会い方だ。

1つ目については本をペラペラとめくって前後を行ったり来たりする容易さが紙のほうが断然やりやすいということだ。Kindleにも一応そういう機能はある。ひとつのページをキープしながら前後を行ったり来たりする機能だ。だが扱いやすさでは紙の本に軍配が上がる。紙の本ならば複数のページをキープしながらめくれる反面、Kindleではひとつのページしかキープできないしそもそもめくるのに時間がかかる。前後を参照しながら読む必要のある教科書、参考書等は紙で買ったほうが良いだろう。

2つ目については電子書籍では自由な書き込みができないということだ。もともと私には理解しにくい本を読むときには余白に自分の意見と本の内容の要約を書き込む癖があった。しかし、Kindleを使ってみるとそれができないことを実感する事になった。まだ理解に苦しむ本というのを読んでいないから必要性を切に感じるわけでは無いが、できないのだなぁと思うとよりしっかりと本を読まなくてはという気になる。一度で理解しようという姿勢になれるのはいいが実際に理解できるかは別の話だ。ここは本を選ぶ眼を持つことで対応していきたい。哲学書とかを自分の考え方を変える目的で読む場合は紙の本を選ぶ.......とか。

3つ目についてはKindleを利用していると本との偶発的な出会いが減るというものだ。Kindleでおすすめされる本は大抵過去にアクセスした本かそれに関連した本だ。そうなると似たような本がおすすめに上がってくることになる。Kindle Unlimitedの本でしかもオススメされる本となると何重にも限定された本を読むことになるわけだ。私は色々な分野の本を読んでおきたいと思っている。大型の本屋でぶらりと専門書の並ぶコーナーに足を向ける事の楽しいこと楽しいこと。電子書籍で文章を読むときは良くも悪くも検索しないものは目に入らない。つるりと他の分野に手を出すのにはやはりアナログの本屋のほうが良い。

Kindleで読書することは完全なリアル読書の互換になるかといえばそんなことは決してない。上で話したことの他にも電子書籍だと情報を拾う読み方になりがちになるなどの問題もある。大事にしていきたいのは本から何を得て自分を変えていけるかだ。目的の無い読書にも良いところはたくさんある。だけど私は常に目的を持って本と付き合っていきたい。目的は何も大幅な思考の変化を起こすものでなくても「表現の幅を広げたい」という弱い理由でも構わないと思っている。目的ありきの読書は情報、知識の吸収率を高めてくれる。本からの学びを最大化していく。そのためにできることをしていこうと思う。読書ノートの習慣は続けたい。気楽さんのXmind読書は導入を検討。


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